水と祈りの近江を歩く ~天台三大修験と悉皆成仏の思想、そして地蔵信仰について~

講師 成安造形大学芸術学部教授 附属近江学研究所 副所長 加藤 賢治 先生

近江国は池泉回遊式庭園にたとえられるほど、琵琶湖を巡る山々に囲まれた美しい国です。
仏教の聖地比叡山延暦寺で行われている千日回峰行の意味について考えます。
また近江の里山に多く見かける地蔵菩薩の石仏の意味も教えてもらいました。

第一部 水と祈りの近江

1. 梁塵秘抄(りようじんひしょう)に採用されて歌

梁塵秘抄は1180年前後に後白河法皇によって編集された歌謡集で、主に今様と言われる流行歌を集めたものです。
「近江の海は海ならず 天台薬師の池ぞかし 何ぞの海 常楽我浄の風ふけば 七宝蓮華の波ぞ立つ
意味
近江の海はただの海ではない。天台宗の薬師如来が住む池である。どんな海なのか。
常楽我浄(仏教の四つの徳)の風が吹く。七つの宝でできた蓮の花の波が立つ。
琵琶湖を仏教の浄土に見立て、その美しさと神聖さを讃えている歌です。

2. 北峰回峰行(比叡山千日回峰行)

相応和尚(そうおうかしょう)が9世紀末ごろ始めた回峰行です。
七年間で1000日山を歩く行です。
①3月1日が始める日と決まっており、1年目は七里半(約30Km)の距離を100日間連続で歩きます。
 無動寺を深夜2時に出発して東塔、西塔、横川、日吉大社を260か所に礼拝しながら6時間かけて巡ります。
 これは比叡山で住職になる人は必ず行う事になっています。従って多数の人が行います。
 この行の終了後に1000日回峰行に入り人は申し出て認められる必要があります。
途中で断念することが許されない定めです。
②2年目と3年目はそれぞれ100日同じ行を行います。
③4年目と5年目はそれぞれ200日同じ行を行います。ここで700日が終了します。
④700日が終了すると、九日間の断食断水不眠不臥(横にならない)を行います。
 九日間の前後は水も飲めるので実質七日間の断食になり、一度死んで仏になるという意味があるようです。
⑤6年目は100日の回峰行に赤山禅院への往復が加わり一日60Kmを100日行う事になります。
 この時は仏になっているので、京都市中を不動明王と一緒に歩くという事のようです。
⑥7年目は200日になり、始めの100日は京都大回り84kmで、後半100日は回峰行30kmに戻ります。
千日回峰行の達成者は「北嶺大先達大行満大阿闍梨」と称される。
千日回峰行の達成者は江戸時代から記録があり51人達成しているそうです。戦後は14人です。
※回峰行の30kmの距離は一般人でも歩くことができるそうです。普通に朝たてば夕方には着けるそうです。

3. 葛川明王院 太鼓回し 

相応和尚が明王院で悟りを開いたと言われています。
明王院は不動明王が祀られており、行者たちが参加する夏安吾と呼ばれる行事が開かれます。
比叡山と村の人が一緒に行う行事が長く続いているというのは珍しい事です。
夏安吾の後、比叡山の行者は三ノ滝に集まり、内容の知られていない行事を行う事も知られています。
(伊崎寺の竿飛びと同じような滝壺へ飛び込むような行事が行われていると想像できるそうです)

4. 伊崎寺

近江八幡市の伊崎寺は千日回峰行を達成した人が住職を務めることになっている寺院です。
また不動明王を本尊とする寺院でもあります。比叡山の無動寺、葛川明王院、伊崎寺は不動明王を本尊とする寺院であり、地図で結ぶと正三角形に近い形になるそうです。
伊崎寺の棹飛びは行者が琵琶湖に飛び込む有名な行事です。

5. これらの行事に共通するもの

千日回峰行の基本は山中を歩きながら260か所もの場所で礼拝をおこなう事です。
すなわち自然の木や石、岩、峯などに礼拝して歩くのです。
ふらふらになって歩き続ければ、無意識のうちに自然に溶け込むような感覚になるのではないでしょうか。
人間も自然の一つであると体感するのではないでしょうか。
棹飛びの行事は、経を唱えながら琵琶湖の深い水中に沈み、琵琶湖と一体になるような行事です。
葛川明王院の秘密の行事も滝つぼに飛び込むような行事のようです。
身を投げて滝の中に沈み、水と一体となるような儀式ではないでしょうか。
これらの行事はすべて、修行を通して自然と一体になる行と思われます。
草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ) 成仏は仏になれる=すべての物に仏が宿る。
これは東洋の思想ですべてが平等と考えますが、西洋では人が中心の社会を考えます。

第2部 近江の地蔵信仰

1. 浄土思想

平安時代、藤原氏の宮廷文化が展開する一方で、無情感や不安感も多い時代です。
武士や農民の武力騒動や都の盗賊の横行、放火など物騒な時代でもありました。
この状況で人々には極楽浄土への往生を願う浄土教が広まっていました。
末法思想では1052年末法の世が到来するという考えも広まっていた時代です。
このような時に比叡山横川の源信(恵心僧都)が「往生要集」を著します。
恵心僧都(えしんそうず)は浮御堂を建立し千体の阿弥陀仏を彫って収めた人です。

2. 往生要集

地獄と極楽浄土を文章化し絵でも表現し文字の読めない人にもわかるように著しています。
第一章 厭離穢土 汚れた世界を厭い離れるべき事
第二章 欣求浄土 浄土に生まれることを願い求める事
厭離穢土の思想を喚起するための方便として六道思想を図で著した。
六道思想:地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天の世界でです。
阿修羅は戦いの世界、天の世界も死の苦しみがあり六道すべて苦しみの世界であることを表現しています。
地獄、餓鬼、畜生は醜悪残酷な世界を絵で表現しています。

3. 地蔵信仰

浄土思想は功徳を積めば浄土へ往生できると説いていますが、これは貴族の世界であって庶民の世界観ではありません。
往生要集ではたとえ地獄に落ちたとしても、地蔵菩薩ならば地獄から救い出してくれると説いています。
世間にいる間に地蔵菩薩に頼んでおけば地蔵菩薩はそれを忘れることなく、もしもの場合でも救って下さると説いています。
末法思想が広がった不安な時代に、地蔵信仰は今昔物語などにも書かれたので広がっていきました。
今でも六地蔵は各地にたたずんでいます。
近江坂本の六地蔵 比叡辻の千体地蔵などは特に有名です。
六体あるのは、六道の世界をそれぞれ担当する地蔵菩薩がいたという考え方によるようです。
中央にやや大きめの石仏がある場合がありますが、それは阿弥陀如来です。
六体の地蔵菩薩と阿弥陀如来の組み合わせはよくある事例です。
比叡山のふもとの村に地蔵菩薩の石仏が多いのはこのような訳です。農民は常々、野道の地蔵菩薩に来世の救済をお願したのです。ここから近江の各地から全国に地蔵信仰は広まっていったと考えられます。
今でも、地蔵盆が各地の行事で行われているは、地域のコミュニティを大切にしてきた由縁です。
それが自分の居場所を作り、将来の豊かさにつながると考えるからです。