講師 佐川美術館 学芸員 藤井 康憲 先生
平山郁夫の作品の魅力を語る上でその鮮やかな色彩は欠かせません。
特に「平山ブルー」と称される深みのある群青色は、瀬戸内海の故郷「生口島」の海の青に深く関わっています。
仏教美術などの古典研究は絵の具などの画材に対する妥協を許さない姿勢と共に独自の色彩感覚を養う基礎となったと考えられます。
講義はその軌跡を辿ります。
1. 生い立ち
生まれは瀬戸内海の生口島で8人兄弟の次男です。
平山家は菩提寺の寺伝によると300年以上続く旧家で初代柴田孫左衛門は柴田勝家の孫とされています。
父は信心深い人で曹洞宗の寺院で修行をしたこともある人でした。
母親は教育熱心な人で平山は勤勉な学校生活を送っています。そんな環境の中でも幼少より特に絵が好きな少年だったようです。
中学3年生の時に勤労動員で軍需工場に働いていた時に被爆しています。
2. 清水南山の薫陶
平山の大叔父に現東京芸大の彫金科の教授であった清水南山がいました。
南山は東京芸大への進学を勧めます。
さらに「高い教養が無ければ本物の画家にはなれない」と平山を薫陶しています。
平山は絵の技術的な勉強はせずに、受験で合格しています。
清水南山の薫陶
①日本の古典、東洋の古典の勉強を怠ってはならない
②人間としてしっかりした基礎を身につける
③安い道具は使わない
④10年は絵で稼ごうとは思ってはいけない
3. 東京芸大時代
平山は生涯、古典研究を怠らなかった人でした。
以下の人の影響を受けています。
①在学時、教授として教鞭をとっていたのは安田靫彦(ユキヒコ)
奈良、京都の古典美術に関心が高い人でした。
特に法隆寺金堂壁画に見られる鉄線描(濃淡のない針金のような一定の太さの線)の洗練された描写に感銘しています。
前田青邨、小林古径、速水御舟など名立たる画家を排出した「紫紅会」を結成しています。
1949年に焼失した金堂壁画の模写事業の総監修を務め、平山も後年この事業に参加しました。
②前田青邨(セイソン)、小林古径(コケイ)
小林古径は当時教授を務めており、写実性と画品を重んじた人でした。
前田青邨と共に日本美術院の留学生として渡欧しています。
安田靫彦、小林古径が芸大を退官した後、前田青邨が教授になります。
平山は卒業後も前田青邨の助手として大学に残り、生涯、師と仰ぎました。
4. 古典研究
前田青邨らから影響を受けて古典研究に向き合う姿勢は学生のころに養われたと考えられます。
敗戦の影響で流入するアメリカ文化に傾倒する若者も多く、平山のように日本画の古典を研究する者は時代に逆行した存在とみられることもありました。
平山も日本画に将来性を見いだせずにいました。
そんな時に東大寺法華堂の不空羂索観音像、日光、月光菩薩像のような天平の仏教芸術を見て世界観が変わるほどの感動を覚え、自分の日本画はこの美に通じるものだと確信を得る事が出来たと後年語っています。
1947年法隆寺金堂壁画が焼失していますが、平山も1967年から復元事業に参加することになります。
この時、平山は今まで気づかなかった古代の美と言うものが見えてくるようになったと後年語っています。
その後1979年より十数回にわたり敦煌莫高窟を訪れ壁画の調査を行います。
ここで法隆寺金堂壁画と瓜二つの壁画を発見し、この地が佛教伝来の源流であると考えるようになります。
仏寺院、遺跡、壁画の模写を中心にした古典探求は自らの想像も加味した幻想画のジャンルにも成果が見いだされていきます。
「高躍る藤原京の大殿」は代表作です。
このように平山の古典研究には仏教美術が欠かせない存在だったのです。
5. 平山郁夫と仏教絵画
平山は仏教美術を研究する中で多くの仏教絵画をのこしています。
経典に描かれた世界を絵画で表したものなどがあり、日本で初めて仏教文化が開花した奈良の仏教美術に深い関心があったことがうかがえます。
紺や群青を背景に金泥を用いて仏の姿を描いています。
これは平安時代の金・銀泥で書写した経典から得た発想と思われます。
往生者を迎えにくる阿弥陀如来を描いた仏画を来迎図といいますが、古典の来迎図を基にした平山独自の来迎図も描いています。
6. 平山郁夫と戦争
平山は広島で15歳の時に被爆し、再び広島を訪れたのは1977年のことでした。
被爆体験が心身共に平山を苦しめていたことは想像できます。
凄惨な戦中の体験を描くことに大きな抵抗があったと言っています。
平山が描いた戦争の絵は2点あるだけです。
原爆を描いた「広島生変図」で炎に包まれた街の天空で、憤怒の表情で「生きよ」と叫ぶ不動明王に、原爆による怒りも哀しみも乗り越えて広島の街は再生を遂げたという思いが込められています。
もう一点は「サラエボ戦跡」でサラエボの焼け跡の街でほほ笑む子供たちの絵です。
悲惨な戦争の後に希望が芽生えているような絵です。