紫式部を近江に招いた観音様

講師 NPO法人歴史資源開発機構主任研究員 大沼 芳幸 先生
    元滋賀県立安土城考古博物館副館長

大沼先生の専門分野は琵琶湖文化史で、特に精神文化からの視点で独特の城郭論を展開されているほか、白洲正子の作品や近江の聖徳太子を通した琵琶湖と近江の魅力を発信されています。
ブログ「オオヌマズの玉手箱」で隠れた歴史遺産が紹介されています。
今日は大河ドラマとは全く異なる紫式部をお話です。

1. 紫式部について

生年月日は970年とも973年とも言われていますが確証はありません。
1031年1月中旬に60歳前後で亡くなったとされています。
当時、本名は明かしませんので不明です。紫式部という名は宮仕えするときの仮の通称名です。
最初は籐式部(とうのしきぶ)でしたが源氏物語を書いたことから紫式部と呼ばれるようになったようです。
式部は父親の官職名です。
清少納言の少納言も官職名で父親のものでしょう。

2. 源氏物語の作者

紫式部が作者とされていますが署名がある訳ではありません。
紫式部が1008年に宮中に上がった時機にその様子や手紙の内容を2年間にわたって書いたものとして紫日記があります。
この日記は状況から紫式部が書いたと考えられています。
この日記の内容を読むと日記の作者が源氏物語を書いたと推測されるので源氏物語も紫式部作とされているのです。

3. 源氏物語の執筆

源氏物語が最初に世に出るのは1008年です。
紫式部は当時としては10年程度も遅く26歳で結婚していますが3年で夫と死別しています。
物語はその現実を忘れるために、このころ書きはじめられたと考えられています。
物語の評判を耳にした藤原道長が娘彰子の家庭教師として1013年ごろまでの8年間仕えさせています。
紙が貴重品だった当時、道長の支援の元に書き続けられ54帖が完成したと考えられます。
紫式部の父は貧乏貴族でしたが道長の推薦で越前国司(知事)になっていますから道長に恩は感じていたのでしょう。

4. 藤原道長の時代

道長は966年生まれで、1028年1月62歳で死去しています。
自分の娘を三代続けて天皇の后にし、天皇の母方の祖父として国政を支配する摂関政治の全盛期を築いた人物です。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば」と言う53歳の絶頂期に歌を残しています。
摂関政治の基本は自分の娘が皇太子を生んでくれることが第一です。
娘の元に天皇が通ってくれるように魅力的なサロンの形成が不可欠で紫式部のような優秀で多彩な人材が必要だったのです。
一条天皇には定子と彰子の二人の正室がありサロンのトップは定子には清少納言が彰子には紫式部がついていました。
清少納言と紫式部は少し年代のずれがあるので二人がライバル関係にあったことは無いように思われます。
長女彰子が皇后になってから次女妍子、三女威子も三代続けて皇后になっています。
一家三后です。

5. 石山寺

石山寺の本尊は如意輪観音です。
如意輪観音は如意宝珠と言う無限の豊饒性と生命力を秘める珠を持っています。
豊饒性と言う意味で女性と結びつきやすいと考えられます。
観世音菩薩は変化する菩薩ですが本来性はありません。
しかし如意輪観音は明らかに女性に対する功徳を意識しています。
古くから子孫を得る事は重大な事だったのでそのためのそのための菩薩が必要だったのでしょう。
皇室においては子孫を得て永続を願う事は最大の願望でした。
石山寺の如意輪観音は女性を救う観音菩薩として皇室に関係する女性の信仰が時代と共に厚くなってきたようです。
道長の時代にも道長の母、姉、記録には無いが道長など皇族や著名人が石山寺に参詣したことが記されています。
夫婦仲の修復、子宝成就、皇室の繁栄など、石山寺の如意輪観音は喧伝されるようになっていきます。
当時の延暦寺、園城寺が政治的なお寺であったのに比べて、そうではない石山寺の戦略があったように感じられます。

6. 石山寺縁起絵巻と紫式部

石山寺縁起絵巻には次の記述がありますが史実かどうかは不明です。
「珍しい物語が読みたいという一条天皇の叔母の選子内親王が、一条天皇の中宮である彰子に言ってきたので彰子に仕えていた紫式部につくらせることにする。
紫式部はおもしろい物語が描けるように祈るために、石山寺に七日間参籠した。
湖の方をはるばると見渡していると、心が住んできて、さまざまな風情が目に浮かび、心に浮かぶので、紙の用意もなかったので、とりあえず目の前にある「大般若経」の料紙に、思い浮かんだ事を書き綴った。」という文書です。
後に紫式部は、大切なお経の紙料を使った事を後悔して、自ら「大般若経」を描いて奉納し、このお経は今も石山寺に伝わっているそうです。
この物語を書いたところを「源氏の間」と名付け、そこは今も変わらずにあります。
紫式部を「日本紀の局」と呼んで、観音の化身とも伝えられているそうです。
石山寺縁起の紫式部の巻は絵巻制作から150年ほど経過した室町時代 約1497年の補写本です。
この話は源氏物語の注釈書「河海抄」(1365年ごろ)に初めて出てくる話です。
紫式部と石山寺とを結ぶ確かな資料はありません。
この関係は文献上でしかなく、また室町時代初期に語られ始めています。

7. 藤原氏と石山寺

道長の姉 藤原詮子が一条天皇の母として石山寺に詣でたのは事実です。
このころの事実として藤原氏が繁栄した事実があるので石山寺としても、石山寺の観音様のご利益としたい思いがあったと考えられます。
また、前段として道長の義理の母も石山寺に詣でた史実があるので道長の成功も石山寺のご利益として巷の人々が噂したとしても不思議ではないでしょう。
石山寺がプロモーションした可能性もあります。
石山寺としては摂関政治の成功者道長を支えたのは石山寺の如意輪観音の力であるので、道長は石山寺を保護した。
その裏には一条天皇の皇后である中宮彰子の存在があり、それを支えたのは紫式部であり、源氏物語であるという筋書きが成立しているのです。

8. 石山寺の史実と紫式部

史実
①藤原道長の縁者が石山寺に詣でたこと
②道長は摂関政治の成功者 
③紫式部が源氏物語を書いた事 
④紫式部は道長に縁のあるものであり、源氏物語が道長との関係で書かれており、特筆すべき物語として評価されていること
これらの客観的史実と評価が石山寺と紫式部を事実として産み出したのかもしれません。
さて、史実はどうなのでしょうか。
1300年ごろになると、紫式部は観音様の化身であったという説も流布され、多くの物語も出されます。
そして紫式部が石山寺で源氏物語を書いたという事実が拡大、拡散されて行きます。
石山寺は源氏物語の聖地として確立されて行きます。大きな流れを見つめると、石山寺の戦略的要素が感じられます。
さらに、時代が進むと源氏物語が虚言を持って構成された事で紫式部が地獄に落ちて苦しんでいるという説まで出てきます。
これに並行して如意輪観音は地獄に落ちた紫式部をも救い救済のグレードアップを遂げていきます。
それは皇室だけではなく一般の女性すべてを救う観世音菩薩として出現するのです。
奈良時代は現在と異なり女性の地位も高かった時代です。
女性天皇も数多く出ています。
武士の台頭と共に女性蔑視の風潮が広がる時代に女性を救う石山寺の如意輪観音は大切な存在だったかもしれません。
石山寺は元々珪灰石の岩と言う自然を崇拝するお寺です。
自然とはあらゆるものを生み出すもので女性にもつながる信仰があるのでしょう。
石山寺の戦略や歴史的な生い立ちと紫式部の関係は文化的にどのように変遷していくのでしょうか。