講師 元滋賀県立高等学校校長 松井 善和 先生
我々北近江文化学科の2年生は1年生の時に松井先生の講義を6回受けています。
1. 5畿七道
最初に日本列島が意識された時代の事です。
律令制の地方行政区画として、山城、大和、河内、和泉、摂津の五か国と東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七道を含めて日本全国を認識していました。
今の東北地方は道の奥=「みちのく」と称されて日本の国土としての意識は薄かったことが覗えます。
山城、大和、河内、和泉、摂津の五か国は畿内と呼ばれ都の直属の地と言う意味です。
道は幹線道路で結ばれた行政区間のようなもので概ね地形的な要素で区分されています。
西海道は九州を指していますが大陸との関係からその中心に大宰府が置かれています。
南海道は少し変則的ですが和歌山と四国が含まれています。
東海道、北陸道、山陽道、山陰道は現在の認識と一致しています。
東山道は近江、岐阜、長野、群馬、栃木から東北地方までを示しています。
明治になって北海道が加わり8道ですが、今も行政区として残っているのは北海道のみです。
・近江は東山道第一の国(一番初めの国)として有名でした。
・熊本県は阿蘇山があり火の国と呼ばれました。火は肥になり肥前、肥後になります。
・越前、越後という名称は都から歩いていくと山を越えなければたどり着けない国と言う意味です。
若狭から福井方面に超える山は険しかったのです。
2. 滋賀県の話
本来は縣が元の漢字で木に首がぶら下がった状態を表わす象形文字です。
紐で繋がっていることを意味し中央集権国家の知事が派遣されて収める行政区画を意味します。
滋賀県の事
近江全体で80万石あり且つ都に近いことから多くの藩領が混在して分割統治された場所でした。
都の直近で権力が集中することを恐れた為と考えられます。
安政3年の近江分国図を見せてもらいました。
井伊藩領が示されていますが、村の半分である所も多く複雑な領有であることがわかります。
近江最初の国府は瀬田にあったことがわかっています。
中央からの指令は瀬田から琵琶湖を船で各郡に伝達されました。
近江12郡は琵琶湖を中心に放射線状の区分けになっている理由でもあります。
現在の福井県嶺南地方が滋賀県であったこともありましたし、長浜県と滋賀県に分割されてこともありました。
当時の中心都市は彦根でしたが彦根県ではなく滋賀県になった訳は明治新政府の意向が大きいようです。
明治維新を主導した薩長土肥に対して歴史的な対立関係があった県はすべて県庁所在地が藩庁から除外され藩の名前も残されていません。
3. 多くの古地図をみせてもらいました
古地図は自分の住んでいる地域の過去の情報を伝え、周辺の情報も網羅されています。
見る人それぞれが多くの情報に触れる機会を与えてくれます。
①満州国を含む日本の地図
②時代ごとの滋賀県全図 すべての内湖があった時代、鉄道や道路ができる過程の地図、伊能忠敬の琵琶湖図
③今は珍しい近畿全図 滋賀県の風と積雪の関係が理解できます。