近江の山城

講師 滋賀県立大学 名誉教授 中井 均 先生

先生は小学校5年生の時に城に興味を持って以来、48年間「城好き」で過ごしておられる先生です。

1. はじめに

近江は湖国であると同時に「城の国」です。
滋賀県教育委員会は1981年から10年間中世城館跡皆調査を行い10冊に及ぶ報告書を出しています。
この時、近江には1300もの城館跡が確認されました。
その大半は戦国時代の城館で石垣、天守、瓦を有さない防衛施設です。
近代城郭は彦根城、膳所城、水口城の三城しかありません。
この調査で先生は現地の地図を担当されたそうで、近江が日本城郭史の縮図という事がよく理解できたそうです。

2. 城郭とは何か

城郭は軍事的防衛施設ですから、軍事面を診なければ、正当な評価はできません。
姫路城は白く美しいではなく、火災対策として白い漆喰を用いたことによる機能美が本質です。
城郭の平面構造は城の防御をどう考えたかが表現されています。
縄張りこそ城の生命線です。
戦国時代の城郭は基本的に山を切り崩し、盛土をして造営する「土造り」の土木施設で、建築施設ではないのです。
土木施設なので遺構を良く見れば、その意図が見事に残されおり、時代も理解できるのです。
だから城郭はおもしろいのです。

3. 山城を楽しむ

山城は何も残っていないのではなく、遺構は土木施設としてそのまま残っています。
敵をどのように防いだのか、戦国時代の人の考えがよくわかります。山の中でその工夫を考える事は山城を楽しむ極意です。
都市化した遺構からはその時代を体感することが、なかなかできませんから山城は楽しいのです。
山城は眺望も素晴らしい場所です。
城は山麓の集落、街道、河川、港湾などを望める場所だったはずです。
城を作った意味も見えてきます。
今は木が生い茂り何も見えないことも多いのが残念ですが、小谷城、彦根城は部分的に当時の眺望を確保する樹木の伐採が行われています。

4. 近江の城跡

①甲賀の城 -惣国の城-
甲賀郡は248もの城館が分布している特別な地域です。
戦国武将にも伊賀、甲賀のことはよく知られていました。
守護を排除し縦社会ではなく、横の組織を構成していました。
「同名中掟書」(ドウミョウチュウオキテガキ)
=同じ苗字を持った者の掟があり、喧嘩または敵が来た場合は全員武器を持って集合するべしという趣旨の古文書。
一村一城のように甲賀の谷ごとに城館がありました。
基本構造は一辺が30~50mの方形で高いものは8mの土塁を巡らせています。
②戦国最大の城 -観音寺城-
近江守護佐々木六角氏の居城で繖山全域を城域とする巨大な山城です。
近江の寺院で培われた石垣の技術が使われ、多くの石垣が使われています。
安土城も石垣が使われた城として有名ですが、使われた石は自然石です。
一方、観音寺城は鏨で石を割る矢穴技法が使われており一歩先行してます。
寺院の石垣技術は近江八幡市津田山の阿弥陀寺でも発掘されており、全国的にも最先端だったと考えられます。
観音寺城は以前からあった観音正寺と融合して築かれたと思われます。
防衛拠点としては問題も多く、政治的な意味合いが強い城と言えるようです。
③小谷城 
湖北の浅井氏が小谷山に築いた全国5大山城の一つです。
山麓に居館を構えながら、山上にも本丸、大広間など規模の大きな構造を持つ代表的な山城です。
山上大広間の発掘調査では37000点に及ぶ遺物が出土しています。
多くの礎石も見つかっており、出土遺物も含めてここで日常生活が行われたいたことが証明されています。
また礎石の調査でこの場所で火災は起きておらず、テレビドラマのような小谷城が炎上して落城するようなことは起こらなかったようです。
山麓居館は公的場所であり、山上の屋敷は私的な住居空間だったようです。
お市、浅井三姉妹は山上の大広間と呼ばれる屋敷で生活していたと考えられます。
④安土城へ
石垣を持つ最初の城は水茎岡山城と考えられます。
1500年前後に11代将軍足利義澄の居館に使われた居館跡に石垣が発掘されています。
この技術は近江八幡の阿弥陀寺の発掘調査で見つかった1490年ごろの石垣と同時代のもので山岳寺院の技術と考えられます。
鎌刃城の発掘調査では半地下式の総柱礎石建物が検出されています。
甲賀市の小川城からも同様の構造が検出されています。
安土城はこれらの技術をすべて取り入れた上に、建物に瓦を用い、城郭に天守台を建設しています。
近江の先進性の上に全国レベルの最新技術を付加した近世城郭の姿を示しているのです。
大きな意味では闘う城から見せる城への革新性が顕著な城です。
信長の城では安土の前に小牧山城、岐阜城が知られていますが、どちらにも立派な石垣が発掘されています。
これらを考えると安土城の石垣は尾張、美濃の石工が作ったと考えるのが自然です。
穴太の石工も参加した可能性はありますが主体とは考えられません。
穴太の技術は全国的に城づくりが行われるこの後に発展したのではないでしょうか。
安土城築城時、信長は家督を信忠に譲っています。
織田家の城は岐阜城で安土城は隠居である信長個人の城という事になります。

筆者の余談
最近安土城の北西面の発掘調査が行われました。
破城の跡と報道されていますが?
安土城の瓦は唐人一観に命じて奈良衆に焼かせたことがわかっています。
金箔瓦が作られていることも事実です。
また金箔が多く使われた天守が炎上したことも事実です。
使われた金は火災でも焼失する事はないでしょうから瓦礫の中に溶解した金が混入していることは十分考えられると思います。
破城の痕跡といわれるのはこの金の回収の為、徹底的に清掃捜索が行われた痕跡ではないでしょうか?

5. おわりに

近江の城は様々な様相を見せており、日本城郭史の縮図です。
歴史は中央だけでなく地域にもあります。
歴史は身近なものであるし、地域のルーツは地域の歴史遺産に繋がります。
城跡は親しまれやすく、保存や整備も盛んにおこなわれ、街づくりの核にもなり得ます。

近江の城を代表する史跡
国の特別史跡:彦根城跡、安土城跡
国指定史跡:甲賀郡中惣遺跡群、観音寺城跡、京極氏遺跡、鎌刃城跡、北近江城館跡群、小谷城跡、玄蕃尾城跡、清水山城館跡、水口岡山城跡