「有限実行、比叡山焼き討ち」 「ひし殺しの悲劇、志村の城 他」

山本一博先生の講義(織田信長と近江の武将)は全4回です。

1回目:午前:信長以前、近江守護佐々木氏   午後用意周到、近江侵攻
2回目:午前:危機一髪、千草越え          午後現地六角氏の牙城、鯰江の城ほか
3回目:午前:有言実行、比叡山焼き討ち      午後ひし殺しの悲劇、志村の城ほか
4回目:午前:近江の武将、その後          午後織田家、その後、質疑応答

11月14日(火曜)です。 今回の講義は3回目です。 授業は 午前:「有言実行、比叡山焼き討ち」、 午後(校外学習):「ひし殺しの悲劇、志村の城ほか」 です。 午前は少し寒かったですが、午後の校外学習は快晴で、ちょうどよい気候でした。

◆午前:埋蔵文化財センター見学と講義(有言実行、比叡山焼き討ち)

講義の前、館長に埋蔵文化財センター内を案内していただきました。そのあと、山本先生の講義です。
このころの織田信長は、少し残虐になっており、「比叡山焼き討ち」の前に能登川の志村城を攻略し、670人討捕られています。

1.滋賀の陣
①元亀元年4月(1570)4月金ケ崎の退き口、5月千草越え 、6月姉川の戦い  ②9月初め浅井・朝倉が江南へ、宇佐山城の森可成が討死
③23日信長 大阪から京へ、坂本へ進軍  ④25日浅井・朝倉が比叡山へ  ⑤24日信長が比叡山へ呼びかける。膠着状況つづ

2.建部一揆 
①元亀元年10月(1570)藤吉郎と丹羽長秀が建部一揆勢を交え、難なく通過  ②信長の一揆の事後、詮索長年つづく
③伊庭の川原崎家の文書(明治の初め発見される)

3.講和から元亀2年へ
①元亀元年(1570)11月佐々木佐承禎と講和、堅田の土豪も信長側  ②元亀2年(1571)2月佐和山城の磯野員昌招降
③同5月6日箕浦の合戦、長政vs秀義、信長が伊勢長島攻め  ④8月18日横山城に着陣、浅井氏をけん制
⑤8月28日佐和山城に着陣

4.志村城攻略、小川氏降伏
①元亀2年(1571)9月1日志村城落城、首数670を討捕る
②志村城のことで、戦う前に小川の城も投降する

5.比叡山焼き討ち
①元亀2年(1571)9月12日信長が比叡山焼き討ち
②比叡山焼き討ちは過去にも何回かあった。明和8年(1499)11代将軍が根本中堂を焼いた。

6.信長の攻勢 
①元亀3年(1572)小谷城と虎御前山で浅井・朝倉に勝利  ②鯰江城を攻撃し、百済寺を焼き討ち  ③槙島城落城で義昭敗北、事実上、室町幕府滅亡
④大嶽・丁野山を落とし、朝倉勢を猛追し、朝倉氏滅亡 ⑤信長、虎御前山に凱旋、藤吉郎が京極丸に侵攻し、久政、長政が自害、浅井家滅亡 ⑥鯰江城落城、六角没落

7.供饗(公卿)(金の首) 
①天正2年(1574)正月朔日、朝倉義景、浅井久政、浅井長政の3つの首は公卿に据え置き、酒の肴に出されて、御祝宴
②このころの戦国大名にとって、敵の首を並べて、戦の勝利を祝うのは敵への敬意の表れだったともいわれる。
③供饗(公卿)とは衝重(ついかさね)の台に穴のないもの、衝重とは折敷に四角の台をつけたもの

◆午後:現地、ひし殺しの悲劇、志村の城他

午後の行程:13:00新宮東草根ハウス前に集合し、新宮町内の志村城跡の外堀のさかさ川、集落内、墓地の一角の大量の石仏などを見学しました。
14:00伊庭集落に移動し、伊庭城跡、伊庭の景観水路、正厳寺、田舟、大濱神社などを見学し、15:00伊庭城跡に戻りました。
最後に埋蔵文化センターに帰り、現地解散しました。  参加人数:クラス20人、事務局1人、先生を含め総勢22人

〇午前の講義、午後のフィールドワークの様子は以下の写真ギャラリーをご覧ください。