講師 龍谷大学 農学部 打本 引祐(こうゆう)先生
滋賀県「死生懇話会」委員・認定臨床宗教師
人がいつから死や死者を意識し、どのように捉えて生きて来たかについて教えてもらいました。
前半は動物生態学や初期仏教の死生観を取り上げ、後半は日本の生と死に対する考え方、死と生をめぐる伝統知について学びました。
1. 動物の死への意識
・象たちが死んだ仲間の像に対して特別な反応を示すのは多くの場面で確認されています。
・仲間の死を悼むチンパンジーも確認されています。
老いた仲間が死亡するまで数週間、世話をした例があります。
残った仲間が互いに悲しみを癒しあう事もあります。
★動物も仲間の死を認識し、悲しみを共有しているように見えます。
2. 人類の精神史における死と弔い
死をめぐる4つの視点がありますが、今日の話は①と②についてです。
①死や死者の捉え方 → 畏怖(おそれ)、慰撫、崇拝、供養の対象
②死後の世界の有無 → 死者は「あの世」へ行った入り来りしている? 死者と生者の関係
③死者の弔い方 → 葬送儀礼、埋葬方法、喪の文化(供養、法事、墓参)
④弔いの社会性 → 信仰共同体、民族、地域社会、残された者と死者の関係性
3. ネアンデルタール人の埋葬
ネアンデルタール人はユーラシア大陸にいた旧人類と呼ばれる人類で気候変動か感染症で絶滅したとされています。
我々の祖先であるホモサピエンスとは異なる人類という事になります。
彼らは言語や文化を持ち、死者を埋葬した痕跡が発見されています。
4. 人類における死生観の変化
狩猟社会のような移動生活社会では死体は置いて移動するので死者と物理的に離れる生活でした。
死を恐れる感情はあったでしょうが、深く考える状況ではなかったと思われます。
農耕文化が広がり定住社会になると死体を近くに埋葬し、物理的に距離が近い生活になりました。
その結果、埋葬地と定住域を分離して共存する生活になったと推測できます。
この状況が死生観を多様化、深化させていきました。
死者を忘れる事が亡くなり、死後、どうなったのか考えるようになったのでしょう。
5. 初期仏教における死
釈迦は紀元前5世紀ごろ、北インドの稲作が盛んなガンジス川流域で活動した人です。
釈迦は人の生は「四苦八苦」、苦しみに満ちていると説いています。
四苦八苦は生、老、病、死、「愛する人との離別」「恨みや憎しみを抱く人との出会い」「思いどおりにならない苦しみ」
「存在の自身の苦しみ」を言います。
この世は苦しみに満ちた世界から救われる道を説いたのが初期仏教の教えです。
釈迦は「苦」、「集」、「滅」、「道」の四つの諦(真理)を説きました。
これらの実践を通じて、人々は苦しみから離れ、悟りを開くことができると説いたのです。
やがて釈迦は死にました。
火葬後の遺骨は福徳があるとされていました。
釈迦は多くの人が訪れる事が出来る市中の交差点の中央に仏塔を建て遺骨を納めるように指示していました。
この仏塔は修行の完成者で正しく悟りを開いた人の仏塔だから、これに触れた多くの人々は心が浄まると説いたようです。
遺骨を納めた仏塔はタブー視されず礼拝、供養されたのです。
この道理によって修行の完成者については仏塔を立てて、これを拝むという信仰が生まれたようです。
釈迦は死後の存在や世界については悟りには無意味として応えていません。
後の仏教では輪廻思想との関連から常に問題になっています。
6. 死んだらどうなる?
①現代の死生観
鎮めの対象というより、見守ってくれる死者
生物学的には亡くなっているが、社会的、心理的には「生きている死者」
②特定の信仰を持たない日本の現代人の来世イメージ
多くの人は「平穏なあの世へ行って、時々この世に帰ってくる」
事例 死んだら祖先の仲間入りをして、盆には家族に迎えられ、そのうち氏神になり、そして自然と一体になる。
②平安時代 臨終来迎 浄土仏教 臨終時に極楽浄土から阿弥陀如来たち仏様の一行が迎えに来てくれる。
現在での信心深い人は「音楽が遠くで聞こえる」といい、年を重ねるごとに良く聞こえるようになったという。
③念仏による滅罪と阿弥陀如来とその聖衆の来迎 信じる人は救われるという事でしょう。
現代の往生伝
在宅緩和ケアを行っていた医師は「その人が持つ宗教的土壌や宗教心に応えてあげるだけで、患者さんはずっと穏やかになれる」と言っておられます。