山本一博先生の講義(織田信長と近江の武将)は全4回です。
1回目:午前:信長以前、近江守護佐々木氏 午後用意周到、近江侵攻
2回目:午前:危機一髪、千草越え 午後現地六角氏の牙城、鯰江の城ほか
3回目:午前:有言実行、比叡山焼き討ち 午後ひし殺しの悲劇、志村の城ほか
4回目:午前:近江の武将、その後 午後織田家、その後、質疑応答
10月 31日(火曜)今回の講義は2回目です。午前が「危機一髪、千草越え」の講義、午後は「鯰江城跡と井元城跡」の校外学習です。
天候は快晴で、午後の鯰江城跡と井元城跡のフィールドワークも小春日和です。
鯰江城跡は鯰江町内の真ん中に位置し、町内の人は鯰江城の遺構ともに暮らしています。
◆午前の講義 危機一髪 千草越え
元亀元年5月は、まわりに敵がいっぱいで、信長が非常に追い込まれていた時期です。
そういうなかで、信長は体制を立て直すため、どうしても一旦、岐阜に帰る必要があったのです。
1.信長、近江侵攻から1年足らず
①近江侵攻から11か月の永禄12(1569)8月伊勢へ出陣 ②大河内城攻撃に近江衆(8国人)参陣
※伊勢に参陣した近江8国人:進藤賢盛、後藤高治、蒲生賢秀、永原重康、永田正貞、青地重綱、山岡景隆、山岡景猶(かげなお)
③10月大河内城開城後、「千草越え」 、市原に宿泊後、入洛 ※このとき千草越えで入洛していた。よく利用していたルートだったかも
2.朝倉攻め
①永禄13(1570)4月金ケ崎城攻撃 ②なぜ朝倉を攻めたか?信長の上洛要請に応じなかったから
3.浅井長政の謀反
①元亀元年(1570)4月28日浅井長政の謀反の報せを聞き、夜、金ケ崎を出立、「金ケ崎の退口」
②鯖街道を退却した。朽木谷の領主の朽木元網が助けた。「義昭が元網の本領安堵」
4.岐阜への帰還
①元亀元年(1570)5月9日岐阜に向けて京を出立 ※4月23日から元亀に改元している
②12日永原(野洲)着、綣村(栗東)で一揆、六角との講和交渉が決裂 ③通路要所に軍を配置⇒岐阜へ
5.千草越え
①元亀元年(1570)5月12日永原(野洲)着 ②19日鯰江城・市原の一揆により、「千草越え」を選択する。甲津畑に信長駒繋ぎの松がある。
③善住坊に「狙撃された」が、かすっただけだった。21日、無事に岐阜到着 ④千草越えの甲津畑の渋川には「善住坊の隠れ岩」が残っています。
⑤天正元年(1573)9月、高島に潜伏のところを磯野員昌が捕縛 ⑥岐阜に連行され、首を竹製の鋸でひかれた。
6.元亀争乱の始まり
①元亀元年(1570)から元亀4年までが元亀争乱(信長と反対勢力の攻防、近江でも合戦の連続) ②信長包囲網の主力、浅井氏、六角氏も存続
7.六角の攻勢
①元亀元年(1570)6月4日野洲河原の戦い ※六角氏江南一揆、甲賀衆VS佐久間信盛、柴田勝家
②六角氏の敗北、六角父子3人、承禎。義治、大原賢永が行方知らず
8.浅井の備え
①千種越え後の信長への対応 ②佐和山城に磯野員昌、鯰江城には六角氏
③長比城(米原市長久寺)、刈安城(上平寺)、 城番、堀秀村・樋口直房が信長に内通
④元亀元年(1570)6月19日信長、岐阜を出発
9.姉川合戦
①元亀元年(1570)6月21日虎御前山に着陣、小谷城に放火、長政挑発に乗らず ②小谷城を退却、横山城攻め、家康合流
③朝倉軍合流、浅井・朝倉が大依山へ、さらに浅井は野村に、朝倉は三田村に ④6月28日、姉川の北に浅井・朝倉軍、南に織田・徳川軍、戦闘開始
⑤浅井朝倉軍、姉川を渡り応戦 、おしつおされつの攻防、鎬を削り、鍔を割り、激闘展開 ⑥ついに織田・徳川軍、浅井・朝倉軍を追い崩す
※信長公記は詳しい記述なし。大きな戦いはなかったかも?通路確保が目的であった ※江戸期の軍記物では、徳川軍が側面攻撃し、戦況が大きく動く?
10.姉川合戦の戦課は?
①双方とも大量の犠牲者? ②浅井・朝倉が敗北? ③しかし、小谷城も無傷、浅井の決定打欠く、中には交戦がなかったという説もある
※この時期、信長は他にも敵がいっぱいで、本格的な戦闘は避けたかったのでは
④横山城を奪取し、木下藤吉郎に(浅井の抑え、横山城以北に浅井を封じ込め) ⑤南に残る浅井の拠点の佐和山城攻略し、岐阜から京都間の通路を確保
11.佐和山城攻撃
①元亀2年(1571)2月24日、磯野員昌、佐和山城を開城 ②員昌高島へ、丹波長秀が城代に。 再び、東山道の通路が確保できた。
◆午後の現地 六角氏の牙城、鯰江城他
午後のフイルードワークで、鯰江町内の鯰江城を見学しました。
車で移動し、名神高速道路の上を越え、井元城跡も見学しました。
後日、千草街道をたどり、甲津畑の信長馬繋ぎの松の前をとおり、善寿坊の隠れ岩まで行き、少しだけ「千草越え」を体感しました。
〇午前の講義、午後のフィールドワークの様子は以下の写真ギャラリーをご覧ください。
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鯰江町自治会館
鯰江町自治会館をお借りして、午前中の講義を行いました。
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鯰江町自治会館
鯰江町自治会館は鯰江城の真ん中に位置しています。
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危機一髪 千草越え
午前中は鯰江町自治会館での講義です。危機一髪千草越えを山本先生に説明して頂きました。
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受講状況
自治会館は建物も設備も新しく、気持ちよく受講できました。
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昼食 仕出し弁当
地元の食材を使って作られた仕出し弁当、豪華です。みんなでおいしくいただきました。
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鯰江城の説明板
自治会館内の駐車場に鯰江城の説明板がありました。
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鯰江城イラスト
埋蔵文化財センターが作成した鯰江城のカラーのイラストです。わかり易く描かれています。
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鯰江城の手書き地図
外堀などの城域内に鯰江町がすっぽりと入っています。(愛智郡志掲載の鯰江城図)
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土塁の説明
山本先生が土塁について説明しています。
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土塁跡
自治会館裏の大きい土塁跡です。
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土塁跡
会館裏の土塁です。(フェンスの向こう側)
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外堀跡
外堀跡です。今は排水路になっています。
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本丸跡
高いところが本丸跡です。
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専修院(浄土宗)
境内にある墓地の一角に横長の祠があり、数基の石塔が祀られています。地元ではこれを「殿さん墓」と呼び、お盆の前日に殿さんの墓参りをします。
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土塁跡
平成11年に発掘調査では石垣が見えていましたが、今は雑草が覆っています。
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城の外側(右側)
お城の外側(右側)が難航不落の愛知川河岸段丘になっています。
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鯰江城跡の石碑
鯰江城跡の石碑と後ろ右側が鯰江城の説明板です。
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集合写真
鯰江町集落入口の石碑の前で撮りました。
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土塁の断面形
土塁の断面形がはっきりわかります。土塁を倉庫の基礎にしています。倉庫が食い込みぎみ。
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暗渠の石組
昭和62年の発掘調査で見つかりました。土塁の下の暗渠排水の石組です。愛知川の河原で採取した玉石と思われます。
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集落排水施設内の説明板
昭和62年の発掘調査で、暗渠排水路跡が見つかりました。下部の幅7mの土塁を想定しています。
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竹林内の土塁
竹林の中の土塁です。外回りの土塁が全てつながっています。すごく長い距離です。
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鯰江城全景
山本先生のおすすめの遠く離れた愛知川の堤防付近から見た鯰江城の全景です。
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井元城遺跡 概要図
埋蔵文化財センターが作成した井元城の概要図です。図があると2重の馬出しもわかり易いです。
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井元城での説明
主郭は方形で、南側が段丘崖になっており、三方に土塁と空堀が巡ります。規模は北辺約41m、南辺約35mです。
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二重角馬出し
北東側に虎口があり、その外側にコ形の土塁と空堀を巡らす角馬出しを2段に重ねており、全国的にも数少ない遺構とされます。、
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二重角馬出し
井元城は、伝承に残っていないこと、特殊な形態の虎口をもつことから信長側が鯰江城を攻略する時に築かれた「付城」と推定されます。
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あとはおまけです 千草街道分岐点
八風街道と千草街道の追分です。浅井家の離反により東山道を経由しての岐阜帰還は叶わず、信長は南方の千草越えのルートを選択しました。
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道標と馬頭観音
道標には右 四日市、市原甲津畑、左 桑名、山上永源寺と書いてあります。右の石碑は馬頭観音です。千草街道は右側を進み、甲津畑を通り、千草越えします。
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信長馬繋ぎの松
甲津畑は滋賀県側の最後の集落です。松の所有者の速水氏は、戦国期に信長が近江に来る祭、警護を担当していました。
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千草街道 甲津畑登山口
林道岩ケ谷線の入口です。ここから先は、車は通行禁止です。30分歩いたところに隠れ岩があります。熊出没注意の標識があります。猿はいました。
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案内板
隠れ岩の案内板です。ここから約20m下に降りていきます。手摺もなく危険です。
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善住坊の隠れ岩
この渋川に沿って、千草街道があったそうです。隠れ岩の標識板の脚が1本になっていました。