「信長以前、近江守護佐々木氏」 「用意周到、近江侵攻」

山本一博先生の講義(織田信長と近江の武将)は全4回です。

1回目:午前:信長以前、近江守護佐々木氏    午後用意周到、近江侵攻
2回目:午前:危機一髪、千草越え           午後現地六角氏の牙城、鯰江の城ほか
3回目:午前:有言実行、比叡山焼き討ち       午後ひし殺しの悲劇、志村の城ほか
4回目:午前:近江の武将、その後            午後織田家、その後、質疑応答

10月17日(火曜)です。 今回は1回目の講義です。授業は、午前:「信長以前の近江守護佐々木氏」、午後:「用意周到、近江侵攻」です。 今日は対照的な織田家と佐々木家の話です。 それも信長の侵攻以前の近江を取り上げます。 織田信長は、戦国大名というより、天下人として、非常に人気があり、誰もがよく知っている全国区レベルの武将です。 一方、佐々木氏は、平安中期から近江を中心に活躍した400年の歴史がある守護大名です。滋賀県に住みながら 「佐々木氏」 のことをまったく知らないので、今回の講義を楽しみにしていました。

◆午前:信長以前、近江守護 佐々木氏

鎌倉時代および室町時代の歴史の表舞台に佐々木氏はよく登場しています。
近江源氏である佐々木氏の400年について、印象に残ったことを記述していきます。

1.佐々木氏の家系
①宇多天皇の第8皇子敦実親王の子、源雅信が宇多源氏の祖、承平6(936)頃   ②敦実親王の子、即ち雅信の孫、経方が、太郎坊の南、近江佐々木小脇館に居住
③経方の子、6代季定(すえさだ)追捕使に弟の行定が佐々木神社の神主になる       ※篠筍(ささけ・ささき)、酒を醸して、ささげたことが由来

2.佐々木一族の浮き沈み
①平治の乱(1195)で7代の秀義が負け馬に乗り、近江落ち     ②治承4年(1180)源頼朝が挙兵、秀義が勝ち馬の頼朝のる
③息子の4兄弟が西国の守護職につく。 跡継ぎは8代定綱

3.承久の乱で一族分裂 
①承久3(1221)後鳥羽上皇の朝廷勢力と幕府側に分かれる    ②京の嫡流広綱一族は滅亡する  ③4男信綱が佐々木嫡流となり、近江守護職をつとめる
④庶家の分立:信綱の4人の息子が分立、嫡流は3男泰綱が継ぐ    ⑤長男重綱:大原氏、次男高信:高島氏、3男泰綱:六角氏、四男氏信:京極氏
⑥泰綱の母は執権北条泰時の妹、背後に幕府の力

4.京極氏から浅井氏へ  
① 高氏(道誉)が徳治元年~応安6(1306~1373)庶流ながら嫡流を継ぐ  ②元弘の乱で足利尊氏に付き勝ち馬にのり、南北朝の動乱期にも活躍して、幕府の中核を担
③京極氏内混乱、応仁文明の乱(1467~)高清(西軍)⇔政経(東軍)対立   ④高清を上坂家信・信光父子が補佐し、上平寺・城下が繁栄する
⑤上坂信光の専横、国人一揆が起こり、高清・高慶・上坂信光が尾張へ逃亡         ⑥京極高延を浅見貞則が補佐、次第に貞則が専横
⑦大永5(1525)盟主は浅井亮政となり、高延を小谷城に迎える。 浅見氏没落    ⑧天文3(1534)京極高清・高延親子と小谷清水谷で饗宴、浅井氏の戦国大名化
 
5.一方、六角氏は  
①鎌倉幕府末期~南北朝期の当主氏頼:出家しながらも六角氏継承             ②引き続く内部抗争:満綱・持綱vs時綱⇒時綱勝利も家督は久頼(1444)
③久頼、幕府・京極の干渉・圧力に耐えられる憤死、家督は幼少の亀寿丸(高頼)     ④応仁文明の乱勃発時(1467)高瀬10歳、山内政綱・伊庭貞隆が支える
⑤第2次六角征伐時、政綱討死(1491)伊庭氏の台頭                 ⑥台頭する伊庭氏を高頼が討つ 
⑦六角定頼の権力伸張・領国支配の確立、永正17年(1520)            ⑧しかし、六角被官は、地元に独自の勢力保持

6.六角氏と浅井の対立再燃
①浅井長政16才で六角義賢を破り、六角から自立、江北を支配下に収める         ②遠交、近攻:江北浅井=尾張織田、江南六角=美濃斎藤
③弘治3(1557)義賢が義弼に譲り、出家し承禎、浅井長政が平井の娘を離縁

7.観音寺騒動のあと 
①永禄6(1563)六角義治が重臣を殺害、他の重臣たちが反乱、長政の影も     ②義弼、日野中野城へ、義賢が三雲へ、蒲生定秀が和解させ、父子観音寺城へ
③永禄10 (1567)六角式目の制定、義昭の処遇を巡って、六角内部で意見相違   ④信長侵攻直前、六角家中が弱体化 

◆午後:用意周到、信長侵攻

午後の授業です。信長の近江侵攻を学びます。信長34歳、一番、油がのっている年齢で、勢いがあります。

1.上洛前 
①永禄8(1565)義昭が脱出・逃亡したのが事の発端、甲賀から矢島へ移動     ②同年8月若狭国小浜に移動し、越前の一乗谷に到着したが、朝倉は国内の混乱で上洛できない
③永禄10(1567)織田は尾張、美濃を治め、さらに伊勢平定して勢力拡大中    ④信長の大義名分作り、足利義昭の依頼に加え、天皇からも上洛の依頼あり
⑤信長幻の上洛計画、義昭の家来が上洛を要請したが、近江が不穏なので延期       ⑥最後の準備、六角氏と交渉したが、同意を得られなかった。他近江の武将の切り崩し

2.近江侵攻  
① 永禄11(1568)9月7日出立、9月8日高宮着陣 ② 12日箕作城落城、佐々木承禎ら観音寺城から逃亡する。
③ 1日義昭、柏原へ到着する。22日桑実寺へ          ④ 24日守山に到着し、琵琶湖を渡り、27日三井寺へ 
⑤ 信長、三井寺から東福寺に着陣、義昭、三井寺から清水寺へ、入洛を果たす。

3.入洛記などの記述  
①東山御文庫所蔵文書:「足利義昭入洛記」に詳しく、書かれています。 義昭と信長の出立の状況、経路、箕作山攻略、観音寺城落城状況などが書かれています。
②京都の公家:山科言継(ときつぐ)の日記(言継卿日記)によると永禄11年九月十四日、六角入道、紹貞城落、江州悉く(ことごとく)焼く
③後藤、長田、進藤、永原、池田、平井、九里、七人、敵同心云々   ※六角式目の署名人の20人の内7人が、侵攻前に信長側についていた
④懐柔は寺院にも(百歳寺と永源寺に禁制) ⑥昭入洛、将軍就任、三好三人衆の拠点攻略(14代義栄病没) ⑦10月28日岐阜城へ帰還

4.信長侵攻まとめ 
①永禄11(1568)10月22日義昭、第15代征夷大将軍に(通路確保)      ②しかし、近江一国を支配下に収めてはいない。
③六角氏が弱体化している中で、それぞれの判断で決断を迫られた近江の武将           ④信長侵攻(上洛)の最大の功労者は和田是政

〇午前と午後の講義での関連する場所の写真ギャラリーです。