「近江の武将、その後」 「織田家、その後」

山本一博先生の講義(織田信長と近江の武将)は全4回です。

1回目:午前:信長以前、近江守護佐々木氏   午後用意周到、近江侵攻
2回目:午前:危機一髪、千草越え          午後現地六角氏の牙城、鯰江の城ほか
3回目:午前:有言実行、比叡山焼き討ち      午後ひし殺しの悲劇、志村の城ほか
4回目:午前:近江の武将、その後          午後織田家、その後、質疑応答

11月28日(火曜)です。今回の講義は最後の4回目 です。 内容は、午前が「近江の武将、その後」、午後が「織田家、その後と質疑応答」 です。
その後とは、佐々木六角氏は石部城が落城し、滅亡したそのあとです。 一方、織田家は本能寺の変で信長が亡くなったその後です。

◆近江の武将・織田家のその後

近江の武将は、佐々木六角氏とその重臣の後藤高治、蒲生氏および京極家、浅井家が対象です。
織田家のその後は、二男信雄と七男信高、九男信貞が対象です。

1.佐々木六角氏のその後
①天正元年(1573)9月鯰江城落城、六角氏甲賀へ       ②天正2年(1574)1月、義昭が六角承禎に協力要請も4月石部城陥落
③天正3年(1575)武田へ承禎の次男賢永を派遣強化      ④天正10年(1582)武田氏滅亡後、承禎、秀吉に仕える
⑤天正4年(1576)2月、承禎の長男義尭、義昭と鞆へ移動  ⑥天正15年に帰京、豊臣秀次の弓の師範になる
⑥承禎と義尭の墓が一休寺の酬恩庵(京田辺)にある          ⑧承禎の次男賢永の息子定治が六角宗家を継承し、加賀藩士として明治まで存続

2.佐々木六角氏重臣の後藤高治
①永禄6年(1563)観音寺騒動で殺害された後藤氏豊の弟、後藤高治が継承   ②永禄11年(1568)後藤高治、近江侵攻前に信長方、伊勢攻めなどに参陣
③山崎の合戦は光秀側、賤ケ岳の戦いは柴田勝家に付いた後、蒲生氏郷に仕える      ④蒲生家が伊勢松坂に転封、天正17年(1589)高治病死
⑤嫡子、蒲生千世寿11歳3千石継承、天正18年主家蒲生家会津42万石へ

3.佐々木六角氏重臣の蒲生氏
①氏郷、信長の娘、冬姫と結婚、本能寺の変の時、信長の妻子を日野城に避難させる  ②天正12年(1584)小牧長久手の戦い、伊勢方面で手柄
③文禄3年(1594)会津92万石、文禄4年(1595)氏郷死去      ④氏郷死去後、家中対立で宇都宮19万石、関ケ原戦い(1600)で60万石に転封
⑤秀行、死去し、嫡男忠郷(10歳)が相続するも(1619)死去(25歳)  ⑥寛永4年(1627)忠郷の弟、忠知が松山城と所領24万石拝領
⑦寛永11年(1634)忠知死去、蒲生領24万石召し上げ、蒲生家断絶

4.京極家のその後
①高次、小谷城生れ、人質で信長のもとで成長   ②信長の近習近江衆として仕える
③本能寺の変後、負け馬に乗り没落          ④浅井3姉妹の初と結婚して、出世街道、運が上向く
⑤関ケ原では東軍に付き、家康に評価される。    ⑥慶長14年(1609)高次死去、嫡子忠高大阪の陣で講和に尽力 
⑦忠高、江戸で死去、嗣子なく断絶の危機     ⑧播磨龍野6万石として再興、万治元年(1658)讃岐丸亀6万余石へ転封

5.浅井家のその後(浅井3姉妹)
①天正元年(1573)長政切腹後             ②茶々は秀吉の側室、初は京極高次の正室、江は天正12年(1584)佐治一成に12歳で嫁ぐ
③江が文禄元年(1592)岐阜城主豊臣秀勝と再婚  ④一子完子は、茶々の養女となり、関白九条幸家に嫁ぐ、九条家の家系が大正天皇の貞明皇后につながる
⑤文禄4年(1592)徳川秀忠に嫁ぎ2男5女     ⑥初姫は京極忠高の正室、千姫は豊臣秀頼の正室、珠姫は前田利常の正室、勝姫は越前藩主松平忠直の正室
⑦男子の家光は第3代徳川将軍、弟の忠長は切腹     ⑧女子の和子さま後水尾天皇に嫁ぎ、興子内親王を生む。親王が明正天皇に

6.浅井氏重臣の磯野員昌
①浅井長政、信長に謀反後、姉川の合戦では先鋒       ②佐和山城を死守するも開城して、高島へ退去、浅井側から織田側へ、信長の甥信澄を養子に
③天正元年(1573)善住坊を捕獲する。          ④信長の意に反することがあり、責めをとがめられると行方をくらます。

7.その後の織田家
①信忠は本能寺の変で死亡、三法師は関ケ原後、病死、嫡流断絶      ②三男信孝、賤ケ岳の戦いで破れ、勝家自害、信孝も知多半島内海の大御堂寺で切腹
③信長の系統は二男信勝、七男信高、九男信貞に引き継がれる。       ④二男信雄⇒高長⇒長頼(大和松山藩3万石)⇒丹波柏原藩(かいばら)
⑤七男信高⇒高重⇒一之⇒信門 旗本高家神崎蒲生に1560石     ⑥七男信高の孫一之、隠居後「淡水」と号す。陽泉院(東近江市野村町)に一之の墓があります。
⑦お鍋は六角の家臣高畠源兵衛の娘、高野城主小倉右京亮の間に2男   ⑧右京亮は信長とは昵懇の間柄、信長の近江侵攻後、六角より攻められ自害
⑨お鍋との二子は蒲生氏に預け、お鍋は信長をたより、岐阜へ          ⑩お鍋と信長の間に2男(信高・信吉)1女(振)、後、先夫の2子に本領安堵

〇午前と午後の講義での関連する場所の写真ギャラリーです。