街道について

柏原宿歴史観館長 谷口 徹先生による 講義の2回目です

1回目:7月26日(金)午前:湖東焼きの盛衰と美 午後:井伊直弼ーその人と生涯
2回目:8月02日(金)柏原宿歴史博物館にて 街道と宿場
3回目:8月23日(金)午前:佐和山城とその時代 午後:荒神山古墳


街道と宿場

柏原宿歴史博物館にて: 当日は、猛暑日でしたが、 自然の風と扇風機のなか、歴史博物館の和室にて 谷口先生の講義が行われました。

柏原宿(中山道60番目の宿場)の特徴として、以下の3点があります。
①資料が多く残されている。とりわけ事件の記録などが多く、滋賀大に保管されています。
②古い建物が残ってる。宿場プライドがあり、年に一度 「やいと」 祭りが開催される。
③道幅が広く 中山道の宿場としては、2番目に大きい(広い)

江戸時代の主要街道ー5街道

江戸時代の主要街道は、東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中 の5つがあります。 これらは、江戸幕府の統治を目的に設置。呼称は 享保元年(1716) に幕府が公定しました。

街道の整備

 柏原宿のある 中山道は、板橋~守山 の67宿場に 草津・大津を加えて、69の宿場があり、柏原は60番目の宿場です。寛永11年(1634)の 徳川家光の上洛や、寛永12年81635)の参勤交代制度の確立をきっかけに、「道路、駅馬、船、橋などを整えて、参勤交代の行き帰りに停滞がないようにする事」を目的にして、宿駅制度の整備と確定が行われました。

宿場

 宿場の使命は、幕府が定めた多くの特権的な通行を保障することであり、このための人馬を用意し宿場間を次々に継ぎ送るとともに、通行者に応じてその休息を提供する事でした。この業務の見返りとして、一般通行者に宿泊を提供できる特権が与えられました。

 宿場は、幕府の(道中奉行)と領主による2重の支配を受けていました。 道中奉行は、問屋に人馬継立、休息、飛脚、街道維持管理をさせ、領主は、庄屋(名主)に年貢の徴収一般行政をさせていました。

問屋(問屋場)といやば

 人馬の継立  中山道の場合は各宿50人、50匹 でした。 
問屋(人馬の継立の統括)、 年寄(問屋の助役)、帳付(書記)、人足指・馬指または、人馬指(人馬に荷物を振り分ける)の役目がありました。

 公用人馬継立: 公用(伝馬朱印状を持つもの)は、無賃、それ以外でも安価な「御定め賃銭」(幕府が公用のために定めた公定賃銭)の優先 で、宿場は困窮しました。このため、拝借米金(困窮時に武家や主家から借り入れた米や金)や、助郷制度により、周辺の村々に人馬などの支援を求めました。
 助郷制度には 以下の制度がありました。
 定助郷:宿駅の常備人馬が不足した時その補充を常に求められた村 
 加助郷:特別な大通行があった際、申し出によって人馬をあてることができる村々

本陣・脇本陣

 本陣・脇本陣は、幕府の認めた公用旅行者、大名、外国使節が宿泊したり休息するための特別な施設です。
本陣・脇本陣は、本陣1軒、脇本陣2軒程度の宿場が多いが、数の原則はありません。本陣は、地域有力者の宅で、その職は代々世襲される事が多く、名字・帯刀を許されました。本陣、脇本陣には、門、玄関、書院などを設ける事ができました。

 大名の休泊:参勤交代を行う大名より 1年から数か月前までに休泊予約、宿場絵図、平面図の提出、宿割や宿料の交渉、遠見のものの派遣、休泊当日は、門前に関札をたて、大名定紋入りの幕を張り、定紋入りの提灯をたてて宿場の入り口で平伏して迎える。 という事で、宿場の関係者は、大変だったと想像します。

旅籠屋

 宿場で食事を提供する宿(一泊2食つき)相部屋がほとんどだったようです。旅籠屋の奉公人という事で、留女、飯盛り女(宿の客引き、時には売春)などで日銭を稼ぐ人たちがいました。

木賃宿

素泊まりの宿。食事は食材を自分で調達し自炊。 宿場の入り口、出口に多かったと言われています。

さまざまな街道の施設

 街道には、以下のような、さまざまな施設がありました。それらの多くは江戸幕府の道中奉行の管理下にあり、その変更には、道中奉行の許可が必要でした。
①高札場、②川越し(徒歩越しでは、川会所で川越札を買い、川越人足に渡して渡る)、③橋、④常夜燈、⑤松並木(街道に植樹されている)、⑥道標、⑦一里塚、⑧見附(宿場の出入り口にある番所)

講義の様子 など 以下のギャラリーを参照下さい。