冨田人形浄瑠璃鑑賞

場所 長浜文化芸術会館 大ホール
演者 冨田人形浄瑠璃共遊団

基礎講座の校外学習として近江で百数十年の伝統を誇る「冨田人形浄瑠璃」の鑑賞会が行われました。
この基礎講座は彦根キャンパス、草津キャンパスの学生が一堂に会し体験を共有するものでした。
浄瑠璃を初めて見る学生がほとんどですが、人形を使った独特の表現法に触れ、地域の文化や伝統を体感することができました。

1. 人形浄瑠璃 冨田(どんだ)人形

「冨田人形」の由来は古く、江戸時代にさかのぼります。
天保6年(1835)阿波から興行に来た人形芝居の一座が北冨田で雪に振り込められて興行できなくなり、帰りの旅費の為に人形を置いていき、その後それを取りに来なかったので、村の芝居好きが人形を使って稽古を始めたことが始まりと言われています。
1844年から1851年にかけて大阪の吉田金吾という人形の指導者で頭づくりの名人が来村し人形座としての基礎が作られました。
吉田座と称して近隣の寺社、祭礼に招かれ講演活動を行うようになっています。
明治7年には滋賀県の興行許可を受けて独立し、昭和32年には滋賀県無形民俗文化財に選ばれました。
現在は父子相承のうちに歳月を重ね郷土の誇る民族芸能「富田のデコ芝居」として愛好されています。

2. 冨田人形共遊団

冨田人形も人形使いの高齢化、農業人口の減少などで一時伝統の灯が消えかかっていましたが、1979年に「冨田人形共遊団」として再発足しました。
メンバーは北富田に居住する人を中心に市内外の人形を愛好するメンバーが集まっています。
公務員、会社員、団体職員、主婦等様々です。
人形浄瑠璃には人形遣い、三味線、語りの大夫、舞台道具方、口上等役割があり、日々の練習に励み、保存と継承に努力しておられます。
文化交流として地元の小中学生、海外からの留学生とも交流しながら活動を広めています。
海外公演も多くコロナ前はニュージーランド、ロシア等5回行っています。
1991年には本格的な浄瑠璃の舞台を持つ冨田人形会館が建設されています。

 

3. 講演演目

講演前に人形の構造や使い方を含めて歴史などの詳しいレクチャーを受けました。
演目 浄瑠璃の有名な演目を二つ演じてもらいました。
①式三番叟(しきさんばそう)
式は例式、儀式のことで決まったやり方を意味します。
三番叟は、能楽の演目「翁」において三番目に登場する翁を指します。
この役は神聖な演目で国土安穏や五穀豊穣などを祝福するために行われます。
つまり能に登場するめでたい翁が登場して鈴を持って種まきをし、天下泰平や豊作を願いお祝いの踊りを奉納する歌舞いです。
二人の三番叟が登場しだんだん激しく舞いますが、一人が疲れて休もうとするともう一人が引き留めて一緒に踊ろうと促す等ユーモアもある演舞です。
縁起の良いものとして多くの場で講演される出し物です。

 

②傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると)巡礼歌の段
近松門左衛門作の「夕霧阿波鳴門」を近松半二、竹田文吉らが改作し人情話で、人形浄瑠璃の定番中の定番です。
徳島藩のお家騒動に絡み、刺客となって隠れ身となっている両親の元に、幼くして分かれた娘がはるばる故郷から巡礼姿で訪ねてきます。
娘を引き込みたくない母親の心情が絡んで、名のれない母親との再開と離別の切ない物語です。

 

4. 人形浄瑠璃の歴史

平安時代、大道芸人・傀儡子が胸に下げた箱に人形を入れ、箱の上で人形を舞わせたのが芸能化のはじまりとされています。
人が操り、語り、歌うなどし、中世では夷まわしの名で門附芸として流布しました。
浄瑠璃は室町時代中期に誕生したと言われ、琵琶法師が物語を語り聞かせる「語り物」でした。
名称は牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語から来たものだと言われています。
安土桃山時代の初期に琉球から三味線が伝わり、音楽的にも文学的にも発展し全国に普及しました。
人形と浄瑠璃は別々に発展してきたのですが、江戸時代、慶長のはじめ頃に結びついて人形浄瑠璃となって発展しました。
浄瑠璃の語りと節回しにおいて、際立った才能を発揮したのは竹本義太夫(1651~1714)でした。義太夫節と言えば浄瑠璃を意味しますが、人の名前から来たものです。
人形の三人遣いは1734年に初めて考案され、それまでの一人に比べ、人形の動き、表現力が格段に豊かになると同時に大きな人形が扱えるようになりました。
集客力もアップし劇場も大きく発展したのです。
それでも宝暦、明和(1751~1772)に最盛期を迎えましたが、やがて衰退し、明治の末期には文楽座が唯一の専門劇場となったことから人形浄瑠璃は「文楽」と呼ばれるようになったのです。
地方では今でも人形浄瑠璃や人形芝居と呼ばれます。
2003年「人形浄瑠璃文楽」は世界無形遺産に指定されました。