柏原宿歴史観館長 谷口 徹先生による 講義の3回目です
1回目:7月26日(金)午前:湖東焼きの盛衰と美 午後:井伊直弼ーその人と生涯2回目:8月02日(金)柏原宿歴史博物館にて 街道と宿場
3回目:8月23日(金)午前:佐和山城とその時代 午後:荒神山古墳
佐和山城とその時代(午前の講義)
佐和山は、境目の城
北に入江内湖、西に松原内湖、東に鈴鹿山脈が張りだす、狭い地帯に、東山道が通る、要衝の地に位置しており、鎌倉時代から、佐々木氏がこの付近を押さえていました。 鎌倉中期(1242)ごろ、佐々木定綱の孫 4人が近江を分割支配。(京極、六角、高島、大原)このうちの京極氏と六角氏の両勢力の境目の城 として、佐和山城が存在しました。
戦国時代、天文4年から、廃城となる、慶長9年まで、 城主、城代が目まぐるしく替わっていきました。
天文4年(1535)ごろ、六角と京極・浅井との勢力争いがあり、六角定頼が佐和山城を勢力下おく。 浅井氏の台頭で、 京極の執権、浅井が勢力を伸ばし、天文21年〈1552)佐和山城を占領。家臣 百々内蔵介が、城代となります。 永禄4年(1561)六角義賢が佐和山城を攻めるが、浅井長政が奪い返し 浅井の重臣 磯野員昌(いそのかずまさ)が佐和山城主となり、 この時点で城代からー>城主が出現し、10年間居城します。
織田信長の近江侵攻が始まり、浅井と同盟を結んだ織田信長は永禄10年(1567)、足利義昭を擁して上洛のため、佐和山城へ入ります。元亀元年(1570) 浅井が信長との同盟を破棄、姉川の合戦の翌年、磯野員昌が信長に降伏し、開城。 丹羽長秀が、城代となりました。
元亀元年以降の城代、城主とその働き
元亀2年 (1571) 丹羽長秀 城主〈5万石)
天正10年(1582) 本能寺の変のあと、秀吉の将 掘秀政 佐和山城主(16万石)
天正13年(1585) 堀尾吉晴 佐和山城主(4万石)
天正19年 (1590)石田三成 代官として佐和山城へ入る。文禄4年(1595) 佐和山城主となる(19万4千石)
慶長5年(1600) 佐和山城 落城
慶長6年(1601) 井伊直政 佐和山城主(18万石) 慶長7年 (1602) 直政 死去
慶長9年 (1604)直政の子、直継 彦根城鐘の丸へ移り、佐和山城は廃城となりました
丹羽 長秀(元亀2年 (1571) - 天正10年 (1582)
浅井攻撃の際、佐和山城主として活躍、 元亀4年(1573) 彦根松原にて大船を建造したり、天正4年(1576) 安土城築城時、総奉行を務めました。
掘 秀政(天正10年(1582) - 天正13年(1585)
清州会議により、秀吉家臣の堀秀政が城主となります。天正13年〈1585〉佐和山城修築 後、北庄城へ。
掘 吉晴 天正13年 (1585) - 天正19年 (1590)
佐和山城主4万石として、秀吉の甥 秀次の宿老として活躍しました。 小田原の陣後、浜松へ移動(浜松城12万石)
石田 三成 天正19年 (1590)代官として入城 ー 文禄4年(1595) 佐和山城主 ー 慶長5年(1600)
文禄4年(1595) 佐和山城主(19万4千石) 関ケ原で敗れ、慶長5年(1600)佐和山城 落城
井伊 直政 慶長6年(1601) ― 慶長9年(1604)
慶長6年(1601) 佐和山城主(18万石) 慶長7年 (1602) 直政 関ケ原での鉄砲傷が悪化し 死去
慶長9年(1604) 直政の子、直継 彦根城鐘の丸へ移り、佐和山城は廃城となりました。
佐和山城の特徴 講義での質問意見など
佐和山城は、交通の要衝の地にあり鎌倉時代より支配者が軍事拠点として利用するなど歴史は古いのですが、戦国時代には、城主、城代が目まぐるしく替わっています。そして関ケ原の戦い後、彦根城が築城されると、廃城となりました。
鳥居本側に、登城道がありましたが、城の周辺の城下町は大きくなく、侍屋敷などは、鳥居本、松原、現在の彦根駅方面 へ分散していました。城下町としては山にさえぎられ各屋敷間の連絡が不便でした。このような事情により、徳川幕府と井伊家は、彦根城を新たな拠点とし、新しい城下町を建設したと考えられます。
まもなく、国道8号線のバイパスが通るので、その前に発掘調査などをしておかないと、昔の遺構が壊される恐れがある。早く何とか調査ができないものか?とういう意見がありました。
また、彦根城と佐和山城の二つを文化遺産にして、彦根の観光の目玉にできるのではないかとの意見もありました。 今後の佐和山城址のさらなる調査を期待したいものです。
荒神山古墳(午後の講義)
荒神山古墳の概略
荒神山の山頂付近に、滋賀県下で2番目に大きいい荒神山古墳があります。これは、古墳時代の前期末(4世紀ごろ)湖東から琵琶湖にかけて力を持っていた首長の墓と考えられます。 弥生時代に米作りが伝わり、水田地をめぐる争い、灌漑、たくわえ、農具の鉄器化、などを指揮する、指導者、支配者が必要となり、地域の権力者が出現しました。また大和政権の勢力が伸びてきた時代でもあり、地元の首長も大和政権の影響を受けた時代です。 そして、地元の首長の墓も、前方後方墳から、大和政権が採用している前方後円墳へ変化していく時代でした。 荒神山古墳は、湖東平野より、琵琶湖に向かった形をしており、琵琶湖の湖上交通の権益に深く関わった首長の墓ではないかと考えられます。
古墳の規模は、全長124 メートル 後円部径 約80m、後円部高 約16m、 前方部幅 約61m、 全方部高 約10m と県下で2番目の規模です。荒神山古墳 葺石により三段構造。段の部分には埴輪を並べてあります。 平成23年2月 国の史跡指定になりました。
近江の古墳時代前期の前方後円墳
近江には、以下のような古墳があります。
古墳時代 前期前半: 雪野山古墳(東近江市)
古墳時代 前期中葉: 和爾大塚山古墳(大津市)、 安土瓢箪山古墳(近江八幡市)
古墳時代 前期末 : 春日山E1号(大津市)、 膳所茶臼山古墳(大津市)、 荒神山古墳(彦根市)、若富山古墳(長浜市)
このように、近江には、古墳時代前期から前期末にかけて、たくさんの、大和政権の支配者のしるしである前方後円墳が、作られました。 これは、前期末には大和政権が近江を勢力下に納めていたことを意味するものです。 ただし、天野川から、伊吹にかけては、前方後円墳がなく、古墳時代前期末ごろでも前方後方墳が作られ、大和政権に抵抗する勢力があったのではないかと考えられます。これは、伊吹のあたりには、鉄鉱石が産出し既に鉄器の技術があり、大和政権との戦いに互角であったかもしれない事などが考えられます。
まとめ
もともと近江の有力者の墓は、前方後方墳の形状でしたが、大和政権が前方後円墳体制を敷いたので近江への大和政権の侵攻と共に、近江の支配者の墓もこれにしたがっていったという歴史があるという事を学びました。このような背景の中、琵琶湖の東岸に位置し湖東平野を眺望できる位置にある荒神山に、4世紀当時の有力者の県下2番の規模の古墳が存在している事、その形が大和政権の勢力下に存在する前方後円墳であることを学び、新鮮な驚きを覚えました。
午前:佐和山城の講義の様子、資料、 午後:荒神山古墳の講義、資料は、以下のギャラリーをご覧ください。
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「佐和山城とその時代」の講義①
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「佐和山城とその時代」の講義②
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佐和山絵図
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佐和山城跡現況地図
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「荒神山古墳とその時代」の講義
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荒神山古墳イメージ
琵琶湖側からよく見える向きである
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荒神山古墳の位置
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荒神山古墳位置
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荒神山古墳
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荒神山古墳2
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発掘された葺石