蒲生氏郷

「蒲生氏郷」  

今回の講義は、福永保先生の 「蒲生氏郷」 です。

福永保(ふくながたもつ)先生は、小学校の時から作文が好きだったことから本を書こうと思いたち、定年後、勤めていた5年間の嘱託の予定を1年で退職しました。その後、「日野町の観光ボランティアガイド」で活動していましたが、そこに「レイカディア大学の卒業生」が3人もいたので、自分もすぐにレイカディア大学北近江文化学科に入学しました。 「蒲生氏郷の本」の出版を考えていたことから、レイカディア大学の「中井均先生」と「いかいゆりこ先生」に相談したところ、激励していただき、出版の決意をしたそうです。 

◆蒲生氏郷について

蒲生氏郷については、名将であり、日野町と松坂のまちづくりを行ったなどの印象しか残っていませんでしたが、今回の講義で、氏郷を深く知ることができ、さらに興味が湧きました。 

1.天正10年の「本能寺の変」の直後、安土にいた父賢秀が、日野の氏郷を呼び寄せ、安土城から中野城まで信長の妻子を避難させました。
2.氏郷の初陣は、信長に同行した永禄12年(1569)「伊勢大河内城の戦い」です。
3.「松木の渡し」を氏郷が一番に乗り移り、敵の中に駆けいり散々に戦い首をとりました。
4.天正12年(1584)「戸木城木造の攻め」で、満月の夜に銀の鯰尾の兜を付けて敵陣に飛び出し、勇将であると有名にした。
5.「コンプライアンス」を遵守し、軍法に違反すると手打ち、打ち首など厳しい処分を科した。
6.「家臣からの忖度」は考慮せず、相撲で氏郷を負かした西村左馬之助はその後加増された。
7.領国経営は氏郷個人の力量でまとめ、知行と情けは車の両輪であり、気前よく諸将に分配した。
8.「信長の町づくり」を踏襲し、日野城下、松坂でも掟書を出し、十楽と表現し、商業の自由化を進めた。
9.「文化人の氏郷」は、和歌、茶道に造詣が深く、高山右近の勧めで、洗礼も受けていた。

◆蒲生氏郷と藤堂高虎の比較

藤堂高虎は、秀吉から家康の乗り換えた世渡り上手な「ずる賢い戦国武将」といった印象でしたが、講義を聞いて、評価が変わりました。 

1.氏郷はエリート、高虎は叩き上げ 
①氏郷は「信長と秀吉」にだけ仕え、信長の娘を妻にしたエリート   ②一方、高虎は「7人の主君」を渡り歩いく叩き上げ

2.城づくり(ともに穴太衆の石工集団を重用して、自らの本城を築いた) 
①高虎はさらに甲良の建築技術、作庭や築城の専門家、小堀遠州らと関係を持ちました。 ②氏郷は平山城、高虎は海(水)城で、ともに地形を生かした城づくりを行いました。
③二人とも天守は層塔型を多用、石垣は直線で積み上げ、スピードアップを図りました。   ④高虎は自分の城以外に、多くの城の修理や縄張りを担当し、家康から信頼を得ました。

3.街づくり(大勢の人が往来する町を作り、商工業を発展させた)
①氏郷は松坂に新城下町を作り、商工業の育成と防御施設を築きました。
②高虎は津城下町に宿駅機能をもたせ、藩士と町との良好な関係を保ち港町から城下町へ変えました。

4.後継者の育成  
①氏郷は男子が秀行だけで、13歳で継承したが、30歳で死去し、孫も早死し、断絶する。 ②高虎は46歳で実子高次誕生、明治維新まで津32万石は存続します。

5.同時出陣(4回)
①天正12年小牧・長久手の戦、秀吉配下で出陣                    ②天正13年根来・雑賀攻め、秀吉配下と秀長配下で出陣 
③天正15年九州島津攻め、氏郷は秀吉の肥後ルート、高虎は秀長の日向ルート    ④天正18年北条韮山攻め、氏郷は一隊を率いる。高虎は信雄配下

6.蒲生家と藤堂家のつながり(氏郷の孫の時代に婚姻で親戚に)
①元和元年3月、高虎の息女(養女)と氏郷の孫忠郷が婚姻、忠郷死後、弟の忠知が伊予松山へ、加藤嘉明が会津へ国替え(高虎の推挙によるもの) 
②松山藩主忠知、広島藩主浅野光成(長成の長男)、今治藩主藤堂高吉は親密な関係、高虎は息のかかった藩主を瀬戸内に置いて、ネットワークで徳川政権を守った。

7.徳川家との関係  
①蒲生家は血縁のつながり、秀行の妻は家康の娘、2代目将軍秀忠は秀行の義兄弟、3代将軍家光は忠郷・忠知の従兄弟です。 
②高虎は早くから家康に接近し、関ケ原合戦で、近江衆に裏切りを働きかけ、秀頼の押えの城の縄張、大阪の陣の活躍、江戸城、大阪城の改修に貢献し、徳川政権を盤石にした。

8.まとめ 
①近江が生んだ二人の戦国武将の氏郷と高虎、どちらも優れた能力を持ち。その力を十分に発揮し歴史に名を残した。

◆蒲生騒動が起きた理由

蒲生家が消滅した原因は、男子の後継者が途絶えたことだが、蒲生家滅亡の一因となったお家騒動の原因はどこにあったのか、探ってみました。 

①氏郷が会津に入部し、家臣は外周に城を持ち、支城で一定の権限を有しました。家臣を若松城下に集め、中央集権的な体制を取らないことが、家臣間の抗争に繋がった原因の一つです。
②急遽92万石に膨れ上がった蒲生家は、元々他家に仕えて、自らの力量で戦働きをしていた武将の寄せ集め集団であり、氏郷個人の力量で主従関係が形成されていました。
③後継の子や孫は氏郷のような管理能力に乏しく、多くの有力家臣が蒲生家を去り、抗争を押える力量のある仕置奉行が喪失した会津92万石は氏郷一台の輝きだけで、儚く消えてしまった。

〇午前と午後の講義での関連する写真ギャラリーです。