柏原宿歴史観館長 谷口 徹先生による 講義の1回目です
1回目:7月26日(金)午前中:湖東焼きの盛衰と美 午後:井伊直弼ーその人と生涯
2回目:8月02日(金)柏原宿歴史博物館にて 街道と宿場
3回目:8月23日(金)佐和山城とその時代、荒神山古墳
湖東焼の盛衰 午前の講義
湖東焼の創始者 絹屋半兵衛 による民窯時代 文政12年(1829)~天保13年(1842)
湖東焼は、彦根城下外舟町の「古着商」の大店であった絹屋半兵衛らによってはじめられました。江戸中期頃、有田焼は海外へも輸出されるほど有名でした。
そこで有田焼の伊万里から技術者を呼んで彦根の芹川で作陶を始めたのが文政12年(1829)頃 です。その後瀬戸などからの職人を呼び、佐和山山麓の窯を作り
制作を始めました。良い作品ができるようになったのですが、絹屋は販路の開拓には、苦労していたようです。そして天保13年(1842)、絹屋の窯は、彦根藩へ召し上げられ
藩の直営となりました。
彦根藩による藩窯時代 天保13年(1842)~文久2年(1862)
当時の12代藩主 井伊直亮(いいなおあき)は、美術品を愛好する人物であり、湖東焼は、高級品生産に拍車が掛けられました。瀬戸、九谷、京都の窯から多くの
職人が招かれ、関連施設の増改築がなされ、優秀な作品が次第に出回るようになりました。そして13代藩主 井伊直弼(いいなおすけ)の代になると、湖東焼は、黄金時代
を迎えます。直弼は窯の規模を拡張し、職人の獲得、養成に力を注ぎました。結果、白く堅く焼きしまった磁器を中心に、染付・青磁・赤絵・赤絵金彩・色絵など美しい製品が数多く
焼成されました。
黄金期を迎えた湖東焼
直弼は、優れた湖東焼を彦根の特産品として他の大名への贈答に用いました。また、政務の合間に行った茶の湯でも、湖東焼の茶道具を制作させています。
「錆絵夕顔図瓢形風炉」は、直弼が自ら下図を描いて制作させた、直弼好みの湖東焼です。 窯場の職工は、安政4年(1857)には、55人となり、日用品なども焼成しました。
しかしながら、万延元年(1860)の桜田門外の変で、井伊直弼が暗殺され、事業は一時停止となります。
桜田門外の変後 窯は、衰退 廃絶
万延元年の11月には,事業が再開され、和宮婚儀に伴い、公卿などへ贈答品を焼成しました。しかし14代藩主直憲(なおのり)が、京都守護職を免ぜられた文久2年(1862)に21年続いた藩窯の歴史は途絶え、山口喜平らに窯場が払い下げられ、喜平の単独経営となりました。 その後民窯として、細々と存続しますが、喜平が死去した明治28年(1895)に湖東焼は、廃絶となりました。
湖東焼の絵師 ~ 客分待遇の 幸斎 と 鳴鳳、 地元グループの 絵師たち
幸斎、鳴鳳
「幸斎」は、飛騨高山の僧で、京都で絵を学んでいます。「鳴鳳」は、京都の寺侍で書画や俳句にも通じた文人です。彼らは客分待遇の絵師として作品を制作し、その作品群は、
湖東焼を代表する名品となりました。 幸斎と鳴鳳の作品の多くは、赤絵金彩で色付されています。
地元グループの絵師
民間で上絵付を行った、地元グループとして、鳥居本宿の「自然斎」、高宮宿の「赤水」、原村の「床山」、城下白壁町の「賢友」 などがいました。
井伊直弼 その人と生涯 午後の講義
井伊直弼といえば、「己の信念を貫いた鉄の宰相」のイメージがあるが、若き時代に埋木舎で学んだ 「埋木の精神」が、バックボーンうとなり、政治家として大きく花開く事になりました。
直弼の生涯
文化12年(1815)直弼は11代藩主井伊直中の14男として彦根藩下屋敷 欅御殿に生まれ、 天保2年(1831)、17歳の時、父の死去により 埋木舎に移ります。
弘化3年(1846)32歳の時 兄 直元病死のため、世子となり埋木舎をでます。嘉永3年(1850)36歳で、12代藩主直亮の死去により藩主に就任、安政5年(1858)大老となります。日米修好通商条約に調印、 安政の大獄が始まります。 安政7年(1860)3月3日、桜田門外で暗殺されました。46歳
大老就任時の情勢、安政の大獄、と直弼の暗殺
嘉永6年(1853)は、12代将軍家慶が死去し、13代家定の時代で、将軍継嗣問題(内憂)が起こっていた事と、ペリー(黒船)がやってきて開港を求め(外患)攘夷化か、非戦開国かが激論となった混沌とした時代でした。安政元年(1854)には、ペリーが再来日し、日米和親条約に調印。まさに、内憂、外患の大変な時代でした。
当時、中国は英国によるアヘン戦争で敗北し、武力に勝る欧米の支配が忍び寄ってくる時代でした。 日米和親条約は、下田と函館を開港し、米国の船への物資補給などができるようにしたものです。当時の米国は、中国との貿易の中継基地として、あるいは捕鯨の中継地として日本での物資(水、食料など)の供給が必要だったのです。 この条約調印を主導したのは老中の阿部正弘でした。その後、将軍継嗣問題が、混沌とするなか、安政5年(1858)4月 井伊直弼が大老に就任します。 南紀派(徳川慶福)と一橋派(一橋慶喜)に分かれており。 南紀派は、条約調印支持派であり、一橋派は、条約調印の反対派でした。 13代将軍が徳川慶福を継嗣にした6月、 大老 直弼 は、貿易の取り決めを行うための、米国との「日米修好通商条約」の調印を安政5年(1858)に行いました。 朝廷からの調印勅許が拒否された中での調印でした。
この調印に抗議するため、水戸の徳川斉昭は、「押しかけ登城」を行いました。当時は、大名は決められた時にしか登城してはいけない決まりがあり、この行動が処罰されます。これが安政の大獄の始まりとなりました。 朝廷は、尊王攘夷派である一橋慶喜を将軍とし、外国人を追い払おうと水戸藩に密勅を送った事がきっかけで直弼は 朝廷、一橋派の大名、尊王攘夷の武士を処罰する安政の大獄が始まり、死罪4名、処罰者52名がでました。なかでも、老中の暗殺計画を自供したとして、吉田寅次郎が死罪となり、後世、直弼は、長州から恨みを買ったのです。 当時直弼は吉田寅次郎の事はあまり知らず、部下の上申に許しを与えただけで、吉田に恨みや敵意はなかったのではないか、と先生は推測されています。 直弼は、攘夷を断行すれば外国には勝てないと、条約の調印などで、これを防ごうとしていたのですが、反対派への弾圧が少し過激過ぎたのでしょうか。 結果、安政7年(1860)
3月3日、桜田門外で暗殺されてしまいます。
「埋もれ木の精神」が 井伊直弼を 教養人にさせた
12代藩主の14男として生まれた直弼は、表舞台に立つ事はないと、「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」 の歌にあるように 埋木の精神を
もって、諦観の思いで、数々の教養を身につけました。 しかし、32歳の時 藩主となり、その後 幕府の大老として、内憂、外患の混沌とした中、日米修好通商条約を幕府の中枢としてかじ取りを行い暗殺されるという数奇な運命をたどった人でした。大老井伊直弼は、政治的手腕的には少し不器用な印象がありますが、「なすべき業」として 禅、武術、能、狂言、国学、和歌、焼き物、茶の湯 などを学び、教養を身につけた人でもありました。
* 禅の修行:13歳から、彦根の清涼寺にかよう。
* 武術の修行:中でも特に力を注いだのは 「居合」 です。20歳で奥義をきわめました。
* 国学、和歌の研究:直弼の和歌集 「柳廼四附」 (やなぎのしづく)約1100首収録
* 能・狂言:幼少期に小鼓を習ったり、狂言「安達女」を草稿しています。
* 焼き物:27歳より楽焼を始める。藩主となり、藩窯 「湖東焼」 に関与し、多くの茶道具を作成させ、湖東焼を世に知らしめました。
* 茶人:直弼の茶号 「宗観」 など、 多量の茶書の収集研究、彦根と江戸での茶会の開催、 茶会の教本となる 「茶湯一会集」(ちゃのゆいちえしゅう)
を完成 ー 安政4年8月
湖東焼作品は、以下のギャラリーを参照してください
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谷口先生の講義
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幸斎作
赤絵金彩鯉図鉢
湖東焼 たねや美濠美術館図録より転載 -
鳴鳳作
赤絵金彩カ花虫図印籠
湖東焼 たねや美濠美術館図録より転載 -
自然斎 作
赤絵金彩花卉急須
湖東焼 たねや美濠美術館図録より転載 -
賢友作
赤絵金彩唐人物図酒盃
湖東焼 たねや美濠美術館図録より転載 -
床山作
赤絵金彩群仙図急須
湖東焼 たねや美濠美術館図録より転載 -
赤水作
赤絵金彩楼閣山水図水指
湖東焼 たねや美濠美術館図録より転載