近江の仏像 北近江を中心に

湖北という地域は立派な仏像が近くにあっても無頓着な人が多く、年に1~2体、古くて立派な像が出てくる珍しい土地柄です。講義では湖北で有名な仏像、神像について写真を基に詳しく説明してもらいました。

1. 近江に1級品の仏像が多くあるのはなぜか?

背景として近江には667年に大津京が三井寺の近くにおかれたのに続き、744年には紫香楽の宮の造営が始まり、745年には大仏の建造が始まっています。大仏はその後平城京に移り完成しています。8世紀後半は東山道、北陸道方面からの物資の集積地であった勢多津(現在の石山寺付近)の近くに保良宮が造営され、当時絶大な権力をもっていた藤原仲麻呂が居た近江国府も近くにありました。このような大規模な建設事業のために官営工房が設けられ、その中心に造東大寺司がありました。これらのグループは木工所、造瓦、鋳所、造仏、など遣唐使からの海外の技術も有する最先端の技術を持ったグループでした。これらのことは正倉院文書によって明らかになっており、近江は権力と先端技術が存在した地域だったのです。

2. 湖北に奈良の中心でしかできない技法の仏像が3体もある

巳高山寺、伊吹山寺には木心乾漆造の1級品の仏像が3体もあります。世界的には石造が多いが日本では木製が多い。日本では木造建築に安置するので軽い木製が必要だったと考えられますが、木は木目から割れるので高い技術が必要でした。
木心乾漆造 : 木の中心を刳り貫き割れを防ぎ、木屑、木粉を漆で練り固めて穴を塞ぐとともに表面に繊細な造形を施す造仏手法。 これらの手法は官営工房の技術がないとできません。
さらに、8~10世紀の湖北の状況が重なっています。
物流の中継基地:海外との交流は当時も重要で敦賀は重要な玄関口の一つでした。敦賀から山を越えて湖北から船で大津に至るルートは主流だったと考えられます。その津(港)は経済の拠点になり、また平野が広がって農地が多く、荘園もあったことが分かっています。荘園の存在は都の権力との繋がりを意味し寺院と共に仏像が作られたと考えられます。
 さらに重要なのは比叡山延暦寺との関係で、上記と同様に延暦寺の荘園があったことも事実です。結果天台宗の末寺が多く建築されることになり、延暦寺の根本中堂の薬師如来立像を模したものが多く作られることになります。
慈恵大師 良源 : 湖北と延暦寺との関係は深く、天台座主を3名出しています。その中の良源は浅井郡虎姫の人で、中興の祖と言われ、現在の延暦寺を作った人です。湖北と比叡山の関係は深く、末寺の増加と共に仏像も増えていったと考えられます。

余談1 そもそも仏像とはどうして生まれたのでしょう?

小乗仏教と大乗仏教に関係があるようで、実在した釈迦ではなく、さらに理想的な教えを広く深めるためにはその象徴として仏像のような偶像が必要だったようです。

余談2 湖北には十一面観音が多く存在しますが、そもそも十一面観音とはどのような仏ですか?

まず最初にそもそもどのような仏がいるのでしょうか?
如来:真に悟りを開いた仏様      釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来
菩薩:まだ悟りを開いていない修行中の仏様の候補生  観音菩薩、弥勒菩薩、虚空蔵菩薩、普賢菩薩、金剛手菩薩、文殊菩薩、徐蓋障菩薩、地蔵菩薩
明王:如来の教えに従わないものを救済するために現れた仏様  不動明王、愛染明王、孔雀明王、
天 :仏教の信仰を妨げるものから人々を守る仏様 帝釈天、阿修羅、弁財天 など
十一面観音は観音菩薩が変化したもので、観音菩薩は人が死後輪廻転生する6つの世界(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のそれぞれに対応して変化できるとされています。変化した姿は如意輪観音、准胝観音、十一面観音、馬頭観音、千手観音、聖観音、です。十一面観音は修羅道に対応した観音菩薩の姿です。

余談3 湖北に十一面観音が多い訳は?

これは想像の域を出ません。東大寺の二月堂の主仏が十一面観音であることと関係していると思われます。
東大寺は国の為に建てられ寺院で日本全土に古くから大きな影響を及ぼした寺院です。二月堂で今でも行われているお水取りの行事があります。これは政治に関わりのある人々が一年間に受けた不浄なものを観音様が取り除いていただけるように願うものです。湖北は奈良の都との関わりが強く、古くから同様の行事が広まったと考えられます。