湖東焼の盛衰と美

磁器と須恵器の違いも良く知らなかったのですが、地元の湖東焼の話を聞いて磁器について知ることができました。そもそも土器は火に対して強いという特徴があります。1万年前、山火事などの自然災害時に粘土が硬くなることを縄文時代の人が発見したのではと考えられています。当時の食生活を劇的に変えたことは容易に想像できます。

湖東焼

郷土の焼物として栄えた湖東焼の歴史と経営に関わった人とその努力など、年表を通して教わりました。始まりは江戸末期1829年有田から陶工を招いて開窯しています。その後、井伊家も藩窯として経営に力を注ぎ、多額の資金も投入して生産能力も技術も最盛期を迎えます。京都、大阪に販路を広げ、藩船で江戸まで販路を広げています。しかし、桜田門外の事件以降、彦根藩は大変な時期に入った為、窯を維持できなくなり、藩窯から民窯に移行しながら衰退の道を辿りました。湖東焼の窯場絵図があり工程を説明していただきました。最初に陶土、陶石を石臼で砕いて微細な粉にする工程があります。この作業の良し悪しで品質が決まるようで大変な作業だと感じました。絵付けも下絵と上絵があり手の込んだものです。確かに金が使われている豪華なものなど焼くわけにはいかないので上絵が必要なわけです。

須恵器

古墳時代の中頃に朝鮮半島から伝わった青灰色をした硬い土器です。それ以前は粘土を野焼きのような方法で焼き縄文土器、弥生土器、土師器といった土器が作られていました。これらは手軽に作れますが、焼きが甘いため水が染み込み易く、耐久性が劣る欠点がありました。須恵器は朝鮮半島から伝わった技術で、ロクロを使って整形し窯を使って1000度以上の高温で焼くため美しく硬いことが特徴です。須恵器の生産が開始された以降も土師器などの手軽な土器は併用されました。土師器は主に煮炊きや食器に、須恵器は貯蔵用、お供え膳などに使われたようです。日本各地に残る「すえ」が付く地名は須恵器の産地であることが多いそうです。

磁器

日本では、材料になる胎土にケイ素を多く含み、釉で彩色して高温で焼成しガラス化が進んだ焼物を指します。一般的に素地が緻密質で透光性があり、吸水性がないものを磁器と言います。一方、素地が多孔性で透光性がなく吸水性があるものは陶器と言っています。定義は国により多少の違いがあるようです。