江戸時代には北近江の主な街道である北国街道、北国脇往還、中山道の3街道がトライアングルを形成していた。当時の北国街道は長浜を通る現在の北国街道に近い。北国脇往還は木之本宿から分かれて、伊部、春照、藤川と伊吹山の裾野を通り、中山道を横断して、東海道に到達する北国大名の参勤交代のルートです。付属の街道として、小谷道、朽木街道、その他、国境の道の西近江路、塩津街道、刀根越えがあります。
一本でない北国街道
北国街道でも「金沢の北国街道」と「近江の北国街道」とでは異なり、さらにその時代によっても変遷してきます。金沢の北国街道は、京都に向かう北国上街道を指します。中世の北国街道は山西街道(小谷道)であり、近世の北国街道は脇往還であり、現在の北国街道は長浜を通るルートです。
江戸時代の北国街道
-
講師 太田浩司 先生
講師の太田浩志先生は、昨年度まで長浜市の長浜城歴史博物館で館長をされていましたが、退職され、現在は淡海歴史文化研究所の所長です。
-
本陣薬局
木之本宿を代表する「本陣薬局」です。現在は資料館になっており、宿札などを見ることができます。明治36年に第22代の竹内五左衛門が、日本薬剤師第1号の免許を取得し、現在も別の場所で「本陣薬局」を営んでいます。
-
街道地図
江戸時代の街道の地図です。北国街道、北国脇往還、中山道の3街道は街道トライアングルを形成しています。付属の街道として、山西街道(小谷道)、長浜街道(朽木道)があります。
-
木之本宿(北側)
北国街道の木之本宿(北側)です。ここから先は柳ケ瀬宿、椿坂宿、中河内宿から栃ノ木峠(標高537m)を越えて、越前に入り、板取宿、今庄宿へ至る。椿坂(つばきさか)は、昔は「つばいさか」と呼んでいたらしい。(知らんけど。)
-
難所(親知らず子知らず)
加賀藩が北国上街道(北国街道)を江戸時代の270年間に通行したのはわずか13回であった。洪水、地震、土砂崩れなど色々な理由の内「越後の難所、親知らず子知らずの通行不可」が2回あった。普通は越後から善光寺を通過して江戸に行きます。(昨年6月の写真です。)