洪水時には高塒川の水位が高いため、元来、田川は排水できない「内水氾濫」が発生しやすい河川です。江戸時代より田川下流域は、たびたび冠水し、稲の生育がわるく、収穫できないことが多く、困窮していた。地元の陳情により、高時川と姉川の合流点の直ぐ上流で交差する田川をカルバート構造で高時川の下を立体的に横断させ、下流部は人工河川により琵琶湖へ排水させることで解消させようとした。カルバートとは暗渠のことであり、矩形、円形、馬蹄形等がある。全国でも河川の下を河川が通るのはめずらしいです。 午前は福井先生の講義、午後は村井先生のフィールドワークです。
時代毎の構造形式
江戸時代のカルバートの構造は、逆流水門が木製であり、模型のところに桝が設置してあったので、木樋(矩形をつないだもの)と思われます。暗渠(木樋)なので洪水などにより吸出しを受け(木樋の周り土砂が流れ出すこと)たびたび木樋は被災していたと思います。明治時代はレンガ造りのアーチ形2連、昭和になるとコンクリート製2連と強固になっていきました。断面も時代とともに大きくなっています。
余談
フィールドワークで見た逆流水門についてみんなが疑問に思った事があります。水門の左右に各4個配置された大きな木枠の意味です。
これは「重り」だと思います。鉄の金具は使用していますが水門本体は木製なので増水時には水に浮きます。江戸時代これを防ぐコンクリートの杭は無いので重りを載せる事が考えられたのだと推測します。重りの材料は河原の石があります。木枠のそこに丸太を敷き詰め、その上に石を積み上げる事で重りを作ったのだと考えますがどうでしょう。
木枠は石をつなぎ留めておく囲いとして作られたと思います。
午前の講義 と午後のフィールドワーク
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位置図
田川は長浜市谷口町の山中を源流とする琵琶湖に流入する淀川水系の一級河川です。錦織町地先で田川カルバートにより高時川の下をくぐり、河口まで直線で開削した河川です。流路18km、流域面積35.4km2 ※カルバートとは暗渠のことです。
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江戸時代の田川
江戸時代より田川下流域は水はけが悪く、たびたび冠水し、困窮していた。長年の陳情により、高時川と姉川の合流点の直上流で交差する田川をカルバート構造で高時川の下を立体的に横断させ、下流部は人工河川により琵琶湖へ排水させることで解消させようとしました。
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逆流防止水門の模型
安政6年(1860)年、工事費8万両をかけて新川の工事を行うことになった。高さ4尺、幅7尺、長さ69間(125m)の伏せ越樋、1337間(約2430m)の人工河川が完成した。文久2年(1862年)田川の旧河道の逆水門が完成し全ての工事が完了した。写真は田川逆水門の模型です。(長浜市文化財)
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明治時代の断面形
明治13年お雇い技師のデ・レーケによる案が提示され、新川を拡幅、田川を本流とし、伏せ越樋の断面を数倍にする案を採用した。県議会で、何度も否決されたが、直接、国の許可を得て、工事を執行した。結果、 長さ109.2m、幅3.1m×高さ1.85m×2連の「田川カルバート」が竣工した。デ・レーケは明治6年、他の4人のオランダお雇い技師と共に来日した。他の技師が1年で帰国する中、デ・レーケは約30年、日本に残り、治山・治水に実績を残しました。
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昭和時代の断面形
昭和41年(1966年)に鉄筋コンクリート製のカルバート(長さ216m、幅4.2m×高さ4.2m×2連)を築造した。従来の2倍の疎通能力です。