北国街道木之本宿の繁栄

木之本宿の紹介

木之本宿は、京へ向かう北国街道と江戸へ向かう脇往還の分岐点がある地点にある交通の要衝に位置する宿であり、多くの旅人が往来しました。
中でも北陸方面と京 あるいは、江戸へ行きかう人の記録などが残されています。 宿場町の歴史は古く、天文14年(1545)年には、屋地11か所、木戸などが確認できます
 江戸時代の絵図では浄信寺南北の街道中央には水路があり昭和初年まで存在していました。
・ また 2度の大火で町のほとんどが消失したという記録が残っています。
・ 元文4年(1739)の大火で270軒余りが消失、浄信寺も消失した模様です。
・ 5年後の寛保4年(1744)の大火では、南北156軒が消失しました。まだ復興途中である浄信寺仮地蔵堂も消失したという記録が残されています。
現在も残る寺社仏閣、家屋等は 大火のあとに建造されたものです。富田酒造の建物は大火のあとの1744年以降に建てられました。

江戸時代の木之本宿の様子

~旅日記から

 文化13年(1816)年、加賀八家の前田土佐の守主従が加賀―京都を往復した際、木之本を通った記録である、「金沢・京都往復道中記」にも、木之本宿の様子が記されています。加賀への帰路の7月21日に一泊した際の記録があります。 宿に14時ごろ、到着し桑酒などを飲み、17時ごろに夕食を食べ19時頃に明日の支度をしています。翌日は5時出発した記録が有り、当時の旅の様子がうかがえます。

~木之本自治会蔵文書から

 文政11年(1828)年、木之本宿での旅人の病に関する彦根藩への報告記録が残さています。病人が出たときは、宿場の人たちは、病人を地元へ送り届けるよう世話をする必要がありました。~宿場の宿命か~


伊能忠敬も宿泊した木之本宿

 伊能忠敬の千葉県「測量日記」に木之本宿宿泊の記録が残っています。
・ 享和3年(1803)5月24日木之本宿に到着し翌25日に木之本宿を出立した記録が残されています。

藩主級の方が宿泊した際、本陣に掲げていた宿札が残っている

 木之本本陣の宿札が現在18本残っています。
 宿札は大名や貴人が宿泊する際、本陣前と宿の出入り口に掲げたものです。
 残っている宿札は金沢藩主、大聖寺藩主、富山藩主、加賀八家、福井藩主、鯖江藩主、永平寺住職、小浜藩主、岡藩主、関白鷹司家姫などです。
・ 最近、床材となっていた宿札が発見されましたが、詳細は未調査との事です。

木之本宿街並みの調査

木之本は歴史的建造物の残存率や街道宿駅の雰囲気は県内トップクラスと言えます

伝統的外観形式を残す家が、6割程度存在 登録文化財への登録8か所を実施

 ①きのもと交遊館、②富田酒造主屋、③ダイコウ醤油主屋、④白木屋醤油店主屋、⑤旧木之本本陣主屋、⑥山路酒造主屋、⑦岩根家住宅主屋、⑧岩根醤油醸造店主屋

町屋の形式

町屋平面形式では2列型が多く、妻入り型住宅(余呉型)が多く残っています。雪の多い地域でもあるので、雪が玄関側に落ちず、横に落ちるからと考えられます。

江北図書館 100年以上の歴史を背負い奮闘

江北図書館は、伊香郡余呉村(現長浜市余呉町)出身の弁護士・杉野文彌が、明治35年に設立した杉野文庫を前身に、明治39年に誕生した私設図書館です。
それから、約120年、町の人たちに支えられ、滋賀県で最も古い現存する図書館として活動を続けています。

建物や、トイレの修繕、維持のためクラウドファンディングで資金を集めています。2023年2月現在