宿場と行き倒れ人

江戸時代の醒ヶ井宿で起こった旅人の死亡事件を通して宿場の様子や当時の事情を学びました。北近江で起こった事件ですが、最終的には江戸で勘定奉行兼道中奉行による裁判として決着が図られています。このような宿場で起こった事件は事件簿として冊子にまとめられ私たちも記録を読むことができるのです。生々しい江戸時代の宿場の様子、庶民の生活、旅の様子も見えてきます。

宿場の事件簿 「藤七病死の一件」

1.事件発生 

1750年6月25日 醒ヶ井宿の地蔵堂の前で旅の病人が発見され、問屋場で保護して医者に診察、治療させる事態となりました。この病人は藤七といい事情聴取が行われましたが、三日後、治療の甲斐もなく藤七は死亡してしいます。

2.藤七の証言

今の広島県福山市郷分村の出身で山梨県の身延市の千ヶ寺へお参りして帰る途中、豊橋あたりで発病して養生しながら歩いたが今須宿で動けなくなった。今須宿で問屋に保護を求めたが拒否され、100文の銭を渡されて駕籠で出されてしまった。駕籠は柏原宿を通過したが醒ヶ井宿の地蔵堂で100文を取り上げ、藤七を放り出して帰ってしまったとの証言を得た。 ※病人が発生した場合は宿場の費用で保護し、しかるべき治療をすることが幕府の宿法として決められています。

3.醒ヶ井宿の対応①

その日のうちに今須宿の問屋の代表を呼び出して事情を問い質しています。その時は対応の誤りを詫びたが、次の日には今須には役人が不在で藤七が勝手に駕籠を頼んで行った事なので今須に過失は無いと証言を変えました。 ※宿法により費用は宿場持ちなので、今須宿同様の対応はしばしばあったと想像されます。

4.醒ヶ井宿の対応②

このような事が許されると宿場町及び街道の秩序が大きく乱れるので、正義感から訴え出て行いを正す決心を固めました。しかしその訴訟の道のりは遠いものでした。管轄する役所は複数ありたらいまわしの末に江戸幕府が対応することになります。醒ヶ井宿は畿内の郡山藩領、今須宿は美濃の大垣藩領、美濃と畿内の争いは江戸という結果になりました。その間、五箇荘の金堂役所、信楽代官所、京都の二条番所、郡山藩に訴状を説明に歩いて往復しています。最終的には江戸まで出向くことになりますが、裁判所が決まるまで2か月あまり要していることになります。紙と筆、複数の人が歩いて出向き説明し、質疑に答えるという現在では考えられない世界です。

5.裁判の行方

裁判が行われるまでは日数がかかりましたが、当時の判決は現在とは異なり9月24日から尋問が行われています。道中奉行が担当し関係者全員を自らの屋敷に招集して問い質します。証拠集めなどでは無く、証言がポイントですから、真実を述べていないと脅しを含めて証言を迫られることになります。 結果 今須宿 駕籠かき2名は逮捕して今宿預かり、責任者2名に各7貫文、庄屋5貫文、責任者代理に2貫文の罰金 柏原宿も責任者に5貫文 年寄に3貫文の罰金 醒ヶ井宿の勝訴 勝手次第でした。柏原宿は無関係では無く、宿場役人は宿場、街道の監視役でありこの義務を果たしていないという判断でした。

6.この事件から見えてくるもの

醒ヶ井宿の費用、労力は相当なものと想像できます。醒ヶ井宿として今須宿の行いを見過ごすと、世間から悪評を立てられる可能性も高く、宿場のプライドと権利を自ら守る法廷闘争だったと考えられます。宿法を守るという正義感だけでは無いと思われますが、江戸時代は皆さんが思っているより訴訟社会だったようです。

 

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