戦国合戦と北近江の街道

近江の戦国時代は応仁の乱からおおむね1573年の小谷城の落城までと言えるでしょう。この考えは信長を中世の人ではなく近世の人とする考え方によります。この時代の北近江には中山道、北国街道、脇往還、小谷道、長浜街道の主要街道が通っています。街道は人や物資を流通させる経済の動脈でもあり、当然これをめぐる戦いも行われてきました。戦国時代の支配者も京極氏から浅井氏、さらに織田氏から羽柴氏へ移って行きました。戦いの痕跡は各地の城郭として今も存在感を示しています。主なものは京極氏の上平寺城、浅井三代の小谷城と領国境界にある長比【タケクラベ)城と須川山砦、賤ケ岳の合戦で有名な城塞群などがあげられます。北近江で行われたそれぞれの戦国合戦と街道の関係を興味深く説明していただきました。

京極氏の上平寺城

関ケ原の西の出口を抑える城として京極氏の上平寺城があります。北国脇往還に接するように京極氏の南館があり、それを見下ろす山上に上平寺城がある大規模な構えです。街道沿いに城下町が形成され、家臣団の屋敷群の上部に上平寺館が配置されています。さらに上部に城郭が配置された当時の構造すべて残した大規模な遺構となっています。当時の大名庭園が残り池跡までも見ることができるのは稀な事だそうです。中山道側には今は京極氏の菩提寺である清滝寺遺跡があり、当時はかなりの館群が形成されていたと考えられます。

浅井氏の長比城、須川山城 

京極氏の菩提寺である清滝寺のすぐ東の山が迫った場所には長比(タケクラベ)城と須川山城があり全体で中山道を抑えていました。またこの整備には同盟関係の朝倉氏も力を貸しており重要性を現しています。浅井三代の時代には上平寺城の後を受けた苅安城が整備され脇往還を抑えています。これらは一体となって近江と美濃の境界を守る重要な城だったのです。しかし、信長との戦いでは知将竹中半兵衛の調略によって信長側に引き渡されてしまい、役割を果たせませんでした。これにより信長は無傷で近江に入る事ができ、浅井氏は北近江に封じ込められる結果となりました。主要街道である中山道及び美濃側の脇往還を失った浅井氏の損失は計り知れないものがあり、街道を抑えた信長の経済力はさらに飛躍したと考えられます。これらの状況や結果は信長公記、嶋記録、淡海温故録などの古文章に残されています。

余談 苅安について

伊吹山の尾根に築かれた上平寺城は別名苅安城とも呼ばれました。この苅安についての余談です。カリヤスとは伊吹山に群生するススキのような植物で黄色の染料の原材料になる事で有名なのです。ススキよりやや背が低く柔らかく刈り取りやすいので名前がカリヤスとなったのです。天平時代から着物を黄色に染める染料として使われています。有名な青色の藍と混ぜる事で鮮やかな緑色を出せるので重宝されました。当時の緑、黄系のカラフルな着物は伊吹苅安が染料として使われていたのです。

姉川、天野川をめぐる合戦

姉川、天野川をめぐる戦いは街道で言えば、小谷道をめぐる合戦と言えます。近江は南の六角氏と北の京極氏のちには浅井氏と南北間の境界争いが頻発していました。特に近江を南北に分ける川である米原付近の天野川、長浜の南を流れる大河姉川の河原が合戦の舞台になりました。近江の田は深田が多く、戦いには向かないので多くの戦いは河原で行われています。①1528年内保河原の戦い:京極氏の内紛 ②1531年箕浦河原の戦い:南の六角氏と北の浅井氏の戦い ③1538年国友河原の戦い:南の六角氏と北の浅井氏の戦い ④1570年野村河原、三田村河原の戦い(通称 姉川の戦い):織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の戦い ⑤1571年箕浦河原の戦い:浅井氏・一向一揆軍と秀吉軍の戦い 主な戦いは以上のようなものがあります。小谷道は中山道の鳥居本から小谷城城下にまっすぐ延びる街道で小谷城が健在だった当時は経済の大動脈でこれを遮断される事は浅井氏にとっては許容できない事だったのでしょう。「東浅井郡志」には当時の軍の陣立書が残っており、これを見ると小谷道の交差点などを中心に陣が配置されており、街道を守る事が目的だった事がよくわかります。

余談 国友村の繁栄

戦国時代に鉄砲生産で有名な国友村ですが、なぜこの村に当時の最先端技術である鉄砲産業が発展したのでしょうか? 堺の鉄砲はわかるが、なぜ国友なのか? 国友村は小谷城の第二城下町というべき場所にあり、北近江の経済的中心都市の一つだったのです。その訳は第一に大河姉川の渡河点の南という位置です。当時姉川に橋は無く、大水による川止めなどに備えて宿などの商業機能が発達していました。さらに姉川を渡る街道と川と平行に通った街道もあり交通の要衝だったのです。今も中心部の交差点は札ノ辻という名前が残っています。今でこそ湖岸道路など湖岸に道路がありますが、当時は内湖もあり葭原が広がっていたので幹線道路は安全な内陸側を通過していたと考えられます。明治時代の国友村にはスーパーマーケットがあった程の商業都市だったのです。日本のほぼ真ん中にあり、日本海側との交易、姉川から琵琶湖へ通じる海運もあり人が集まる経済都市だったと考えられます。

賤ケ岳の合戦と北国街道  

1583年に起こった賤ケ岳の合戦は信長亡き後の近世的内部抗争ととらえて戦国の戦いと区別する考えがあります。この合戦は「天正記」「羽柴秀吉感状」など古文章に残っていて詳しく分析する事ができます。北の柴田軍と南の羽柴軍の陣形を見ると余呉湖の北でお互いに北国街道を遮断し最前線を構築している事がわかります。つまり京都につながる北国街道をどちらが掌握するかをめぐる戦いと言えるのです。柴田勝家は本陣を玄蕃尾城におき、秀吉は木之本宿の地蔵院に本陣をおいて対峙しました。長期対峙の末に秀吉が岐阜に帰った隙をついて、柴田軍が西浅井から余呉湖西岸を抜けて秀吉軍の内側を攻める中入り作戦を仕掛けたことで大きく動きます。岐阜の秀吉は報告を受けて即、1昼夜で中山道から脇往還を抜けて木之本本陣に戻り体制を整えました。中入りしていた柴田軍は囲まれる事を恐れ来た道を退却し、それに乗じた秀吉軍の追撃にあっけなく総崩れして勝敗が決しています。これが北国街道をめぐる賤ケ岳の合戦のあらましです。

玄蕃尾城おすすめ

柴田勝家の本陣であった玄蕃尾城は余呉湖側から行くと、柳ケ瀬トンネルを抜けてすぐ左の山道に入ると辿り着けるとのことです。中世の城の雰囲気がよくわかる先生おすすめの城です。規模も大きく立派な城跡を感じる事ができるそうです。