文久元年(1861)10月~11月公武合体の象徴として京都から江戸へ向かった皇女・和宮は、中山道を通行した。沿道となった番場・醒井・柏原宿は何をさせられたのか?どのような影響があったのか?という興味深い講義でした。
和宮 降嫁決定までの略歴
弘化3年(1846)1歳 仁孝天皇の皇女として誕生
嘉永4年(1851)6歳 有栖川宮 と婚約
万延元年(1860)15歳 降嫁勅許
文久元年(1861)16歳 降嫁のため京都から江戸へ
公武合体の象徴として徳川 家茂と婚姻
行列の規模
朝廷側1万人、幕府側1万5千人、合計2万5千人と道中警護の人員12藩、1万人と大規模なものでした。
降嫁 旅程
行程 京都 10月20日出発 -> 中山道-> 11月15日 江戸 日本橋 25日の旅程
滋賀では、4泊されました。
京都―大津―守山―愛知川―柏原―>…
大津 10月12日、守山 10月22日、愛知川 10月23日、柏原 10月24日
宿場施設の整備、確認
施設の確認
和宮の休息・宿泊書として、各宿場の本陣があてられました。 幕府は、各宿場に対して、本陣、脇本陣等の図面の提出を指示をしました。
宿泊施設の整備
本隊のための宿泊施設だけでなく、同行する道中奉行130人余の宿泊と籠、道具類の保管のための物置の設置が必要でした。
本隊以外の隊列
和宮の「御道具」の通行
道具類83棹、付き添いとして町奉行与力・同心、大工・職人らも同行しました。
御列外
勅使など、本隊以外の隊列が加わり人足297人、馬20疋が同行しました。
警護要員
警護人通行のため、前後の宿場でも関係者が宿泊しています。 幕府講武所の師範など50名を含む 上下154人が醒ヶ井宿7軒に分宿しました。 その規模は、人足189人、馬26疋でした。
和宮通行時の負担
「お上」の公用にかかわる経費は、各宿場町の負担となる。宿駅の名誉、冥加として務めています。
和宮下向の「献納金」の納入。
郡山藩領の神崎、蒲生、坂田 3郡で金800両の献納を行った記録があります。
坂田郡は13か村で168両余の献納を実施しています。
和宮通行の際の規制
和宮が宿泊するご旅館の前後3日間は、公儀公用以外の通行は禁止(中山道)されました。
街道筋の宿場、村へは、中山道へ通じる枝道・間道も中山道同様通行禁止を通達しています。
通過時は、火の元用心のため、煙を出すな。通行の前後2日は、田畑での仕事は禁止。通行時は、関係者以外は家から出ないこと。前後2日 寺社などでの音曲、鳴り物も禁止とされました。。
各宿場での準備物
幕府から各1000足の準備はありましたが、各宿場でも草履、草鞋の準備をするよう通達されています。
沿道警備 醒ヶ井ー垂井
郡山藩と郷士が沿道警備に当たりました。
郡山藩領の村から警備要員は、郷士の身分として徴発されました。
警備の郷士たちには、苗字・帯刀が許可されています。。
和宮通行沿道の疲弊
坂田郡柏原村では、膨大な出費のため、納めるべき年貢が不足しました。
経費が賄いきれず、遠国の村(助郷村)に援助を求めたが、金1617両の借財となり、借金返済難渋となりました。
沿道の村々への影響も大きく、大規模行列のための沿道村、助郷の村への過度の負担がかかり、宿場・村落の運営に極度の矛盾が生じました。
その後の和宮
慶応2年 (1866) 家茂死去。
明治元年 (1868) 維新後京都へ帰り、のち東京移住。
明治10年 (1877) 9月死去 享年32歳。
和宮降嫁は、お上の一大事業だったとはいえ、このような大規模な行列の通過は、沿道の宿場に、降嫁行列を無事通過させたという名誉と共に、宿場の負担による大きな経済的な疲弊を残したと考えられます。 さて、今の時代に、各町にこのような負担をかけたとしたら どんな騒ぎになっているでしょうか?
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皇女和宮降嫁と沿道の宿場町の講義
講師 小野 航 先生: 沿道の宿場町への影響はどのようなものだったのかが視点の興味深い講義でした。
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和宮と徳川家茂 公武合体の象徴
和宮 降嫁決定までの略歴
弘化3年(1846) 仁孝天皇の皇女として誕生、嘉永4年(1851)6歳 有栖川宮 と婚約、万延元年(1860)15歳 降嫁勅許、文久元年(1861)16歳 降嫁のため京都から江戸へ -
和宮降嫁の旅程と近江
近江での宿泊地と(休憩場所)10月20日ー24日 大津宿ー(草津)ー守山宿ー(武佐)ー愛知川宿-(鳥居本)ー柏原宿
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和宮の降嫁の旅程
京都 10月20日出発 -> 中山道-> 11月15日 江戸 日本橋到着 25日間の旅程