徳川家康と城づくり

講師 滋賀県立大学名誉教授 中井 均 先生

先生は今年の大河ドラマに関連して家康の話を依頼されたそうですが、人には興味がないとの事で城づくりに関する講義として引き受けられたそうです。

1. はじめに

家康の城づくりに関して特筆すべき点は天下普請です。
関ケ原の合戦を契機に徳川政権を確実なものにするため日本の城郭の再構築を行っています。
全国の諸大名を動員した天下普請により重要な拠点の城を再整備しました。
大阪城包囲網の拠点、膳所城、彦根城、篠山城、亀山城、特に前田利家対策として長浜城、德川の拠点として加納城、名古屋城、駿府城、江戸城、二条城などです。
名築城者も登用しています。
近江出身の藤堂高虎、石垣作りに優れた加藤清正、大工の棟梁として東寺五重塔、名古屋城天守を建てた中井大和守正清です。
この人は大工ですが大和守と言う大名と同じ官位を受けています。

2. 家康の居城変遷

岡崎城
1560年の桶狭間の合戦の結果、家康は誕生の地である岡崎城を本拠としました。
岡崎は家康の祖先が山間部から出て、岡崎に目をつけて拠点とした場所です。
当然ですが、当時の城は石垣も瓦も天守もありません。
今ある岡崎城は家康の関東移封に伴い、豊臣大名の田中吉政が入城して造営したものです。
浜松城
1570年、弱体化した今川氏に対する前線基地として家康が造営しました。
曳馬城から城域を西側の段丘に拡張したことが知られています。
発掘調査でも家康時代の石垣、瓦は確認されていません。
実態は不明ですが、土木の専門家である家康家臣家忠は日記に石垣について記載しています。
近世の浜松城は1590年の家康関東移封に伴い、豊臣大名の堀尾吉晴が造営したものです。
駿府城
1582年武田氏が滅亡し家康は三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五か国の大名になります。
1586年駿府に築城し浜松から移りました。
松平家忠は日記で石垣普請、天守手伝い普請、子天守手伝い普請などの記述が見られます。
秀吉の家臣として北条氏への最前線の城として石垣、天守、金箔瓦を備える城だったと想像できます。
先生自身が行われて発掘調査でも約33mX37mの天守台が発見されています。
江戸城
1590年関東移封に伴いその居城としましたが、当初ほとんど改修せず石垣すら設けなかったようです。
重臣の本田正信が石垣普請を勧めたが、行わなかったことが知られています。
1603年将軍宣下を受けて、江戸城大改修を開始し、1607年天守が完成しています。
当時は将軍の代替わりの象徴として天守を造営したようで、秀忠、家光は天守を改築しています。
3代目の天守は1657年明暦の大火で焼失し、その後再建されることはありませんでした。
天守で威信を示す時代が終わったためでした。
大御所時代の駿府城
1607年将軍を退いた家康は大御所として駿府城に入りましたが、その年、火災により焼失しています。
1608年に本丸御殿、天守が完成しています。
発掘調査で天守台が検出されましたが、約61mX68mと言う日本最大規模の天守台です。
天守台の中央に天守を配置し、四隅に櫓を配置して多門櫓を巡らせるという特異な構造(環立式天守)のようです。

3. 天下普請の城 膳所城

膳所城は1601年6月、関ケ原の合戦後、最初に行われた天下普請の城です。
現在は破脚された城ですが重要な城です。
東日本からの街道はすべて大津に集まって京、大阪に通じています。
大津は街道の抑えとして重要な場所です。
関ケ原の戦いでも大津城は東軍の城として西軍(九州勢)15000人を引き付けて籠城戦を展開しています。
この15000の兵力を関ケ原に参戦させなかったことが東軍勝利の一因とされています。
城主の京極高次は最後に降伏開城していますが、家康はその功績を認め、戦後若狭8万5千石の大名にしています。
その後、高次は小浜城を築城、小浜の町を整備しています。
この辺りは今村翔吾の小説「盾と矛」に詳しく書かれています。
家康は当初大津城の改修を命じています。
大津の籠城戦で山側から狙う大砲に弱いことが露見していた為、膳所の地が選定されました。
石材、木材などは大津城から流用されました。
大津城も元は光秀の坂本城の材料を流用したものでした。
材料の流用について
技術的にも加工された石材は重要ですし、乾燥して歪を取った木材は貴重なものでした。
そのまま移築するのではなく、材料を流用したようです。
現存する彦根城も大津城の材料を流用していますが、彦根の天守が3階建てに対して大津城は4階建てでした。
膳所城の話に戻りますが、この城の造成中には城主が決まっていません。
完成後、家康はこの場所は「王城にして枢要の地」として城主を部下に推薦させて戸田一西(カズアキ)に決めています。
膳所城の構造
琵琶湖に浮かぶ本丸、二の丸、本丸の南側に設けられた巨大な舟入が特徴の城です。
本丸の北西隅に珍しい4層4階の天守があります。落城しなかった大津城からそのまま移築したと思われます。
4層は珍しい構造で大垣城、尼崎城、大洲城くらいしかありません。
東海道を城に引き込むように前面に通し、琵琶湖の舟運と街道を押さえる為の城です。

東海道を城の前に引き込み琵琶湖に浮かぶ膳所城

地震の前の膳所城二の丸と巨大な舟入を備えた本丸

1662年の大地震
近江高島を震源にM7.6の大地震が発生し、天守は傾き、本丸の三重櫓は土台と共に湖中に崩れ落ちました。
この地震の跡、大改修が行われ湖中の本丸と二の丸を合体させて本丸とする大改修が行われています。

地震後に改修された本丸

膳所城の廃城
明治6年(1873年)城主戸田氏が今後の管理が困難であることから明治政府の方針に従い廃城を決定しました。
湖上の城だった本丸は陸続きの公園として整備され現在に至っています。
廃城に伴い、城の城門等流用できる部分は市中に売却されて為、現在も残存し見ることができます。