近江と徳川家康の深い関係

講師 淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司 先生

家康は秀吉、信長のように近江に本拠を置いた訳ではありませんが、人生において節目となる事件がいくつも近江で起きています。

1. 徳川家康の略歴

①1542年12月26日、三河国岡崎城で生まれる。秀吉は5歳、信長は8歳年上
②6歳 織田信秀の許へ人質に出され、8歳の時には駿河の今川氏に人質として移される
③19歳 桶狭間の合戦が起こり、今川氏から離れて岡崎へ帰る
④20歳 織田信長と和睦。22歳の時、三河一向一揆が勃発
⑤28歳 今川氏が滅亡し、遠江国が徳川領になる
⑥29歳 織田信長に従い4月25日朝倉攻めに参加。6月28日姉川合戦に参加。9月浜松城に移る
⑦31歳 12月22日 三方原の合戦で信玄に敗れる
⑧34歳 長篠の戦い 
⑨38歳 松平信康事件 
⑩41歳 6月2日本能寺の変 神君伊賀越え
⑪43歳 小牧、長久手の戦い 
⑫45歳 大阪城に出向き秀吉に臣従を誓う。12月に駿府城に移る
⑬49歳 小田原北条氏滅亡し、関東への移封を命じられ、江戸城を本拠にする
⑭53歳 伏見城の普請を務める
⑮54歳 秀次事件が起こり秀頼に忠誠を誓う。嫡男秀忠と浅井長政の三女 江の婚姻が成立
⑯57歳 秀吉死去 
⑰59歳 9月15日 関ケ原の合戦
⑱70歳 秀頼と二条城で会見する
⑲73歳 大阪冬の陣 
⑳74歳 大阪夏の陣
㉑75歳 駿河国駿府城で死去(信長は49歳、秀吉は62歳で死去) 

2. 越前国敦賀攻め

近年、ドラマや小説で描かれる状況とは異なることがわかってきています。
将軍義昭は傀儡将軍ではなく、近畿圏ではまだまだ力があったようです。
この敦賀攻めは信長の単独行動ではなく義昭の命に従ったものであることが近年の研究で分かってきています。
信長が撤退したことは良く知られているが、家康の行動はわからないことが多いようです。
第一に浅井長政がとった行動について浅井側の記録ななく、朝倉記に長政が海津まで出陣したと記すのみです。
家康側の記録も手筒山攻城戦に参加したことが記されているが、どのように危機を脱して三河に帰ったかは謎に包まれています。
①1570年 家康は将軍義昭の命に従い、同盟関係にあった信長と若狭国の武藤氏を打つために若狭へ侵攻し、さらに武藤氏の後ろ盾である朝倉氏も攻ています。
②4月20日京都出発、22日若狭勢を一掃し25日には越前敦賀で朝倉の手筒山城を落城させています。
③その後、朝倉景恒の金ヶ崎及び疋田城も開城し、木の芽峠を越えて越前国の嶺北地域に攻め入ろうとしたときに浅井長政離反の報が届きます。
④4月27日信長は木下秀吉、明智光秀、池田勝正を殿に残し、朽木谷を通って京都に帰還します。
 家康は信長の退却を知らず、敦賀に置きになったと松平記は記しています。

3. 姉川合戦

姉川の合戦は近江で起こった最大の合戦と言われていますが、本当にそうでしょか? 
合戦の敗者である浅井、朝倉軍は姉川合戦の翌年にも「志賀の陣」や「箕浦合戦」をはじめ数度の戦いが行われたことを考えれば、言われているような致命的な敗戦ではなかったと考えるのが妥当です。
姉川の合戦から浅井、朝倉氏が滅亡するまでには4年の歳月が流れています。
江戸時代に徳川家から見た姉川合戦は德川軍の活躍を過大に評価する為、全面的な交戦が行われ、さらに德川軍の活躍によって劣勢の織田軍を救い、全面的な勝利に導いたという筋書きが作られたと考えられます。
徳川の古文書では江州合戦と書かれています。
江戸幕府になってから大名、旗本の公的資料編纂事業を行っており、江州合戦に参加した徳川家臣たちが江州合戦の業績を記しています。
各家に伝わる功績や負傷、戦闘の場所などの細部が記されており、そこから見えてくる姉川合戦の実情を太田先生に解説していただきました。

姉川合戦の実情

当時の織田軍は浅井方の横山城を包囲する形で陣を敷いており、その最後尾に信長本陣があったと想像できます。
当時の姉川周辺は河原や丘陵を除いて深田が広がっており、大軍を配置できる場所も戦ができる場所も限られていたと想像できます。
この戦は浅井軍が織田軍の本陣に奇襲をかけた戦いであり、この奇襲を敢行したのが浅井の重臣、遠藤直経で織田軍内の深い場所で討ち死にしています。
奇襲の失敗を見届けた浅井の本軍は小谷山に引き上げたと想像できます。
徳川軍が対峙したのは朝倉軍であり、浅井軍の奇襲に反応した德川軍が姉川を渡り川の北岸で現在「千人切の岡」・「血原」と呼ばれる場所付近で激しい戦闘が行われました。
その後、朝倉軍は退却したのでそれを追って虎御前山や田川付近まで追撃戦が行われたと考えられます。
家康にとっての姉川合戦は本陣から退却する朝倉軍を追撃した合戦だったと考えられます。

4. 神君伊賀越え

1582年6月2日の未明に本能寺の変が起きた時、家康は堺に滞在していました。
三河本国にどのように帰るかの選択に迫られることになりました。
6月2日に堺を立って南山城路を経て宇治田原で宿泊し、3日は裏白峠を越えて南近江路から近江甲賀郡信楽に宿泊しています。
4日は北伊賀路から伊勢路を経て四日市へ出て鈴鹿市から船で常滑に渡り、知多半島を横断して半田市に出て6月5日に岡崎に帰着しています。
今も不明な部分は4日目の旅程です。
伊賀市柘植―亀山市加太、関市、亀山市を通過したことは確実ですが、信楽から柘植の間は最も危険な道であり、今も不明点が多いとされています。
今までは桜峠→丸柱→川合→柘植となっていますが、伊賀は天正伊賀の乱で信長が伊賀惣国一揆を殲滅した場所でありその中心地に近づく事はありえないという意見も多いのです。
伊賀越えに関する一次資料も2通しかなく、その内の1通は甲賀の国衆である和田家に宛てた起請文です。
岡崎に帰還した直後の6月12日に出された逃避行時の対応を感謝した文章で、伊賀者ではなく「甲賀者宛て」であることが重要です。
甲賀者の家に古文章が残っている事実から桜峠ではなく、距離もそう変わらず下り道で安全度の高い甲賀越えの選択も可能性が高いと考えられる訳です。
この場合伊賀国を通過する距離はわずか3キロになります。
神君伊賀越えの話は江戸時代に徳川と関係の深かった伊賀者が1972年に編纂した「伊賀者由緒書」に初めて登場する話なのです。
彼らの由緒を飾るための創作が含まれている可能性は大いにあるでしょう。
1582年当時は伊賀者より甲賀者の方が徳川に近かったようです。

5. 家康と近江の関係 その他

講義は午前中だけでしたので時間が足りず、以下の内容の講義は紹介のみでした。
①関ケ原合戦後の治安政策
家康は合戦後の混乱を防ぐために15日から21日にかけて美濃、近江、畿内に多くの禁制を出しています。
軍勢の乱暴、放火、田畑の刈り取り、竹林の伐採を禁じています。
②大津の陣営
家康は17日佐和山城の落城を見て、18日近江八幡に宿泊し、後の朝鮮人街道を通って大阪に向かっています。
草津に一泊してから大津で6泊しています。大津城に戦後処理の本陣を置いたと考えられます。
家康にしてみれば、交通、流通の拠点である近江を制しない限り、天下を取ることができなかったのです。