松井先生の4回目の講義 8月8日(火)午前:彦根 午後:岩脇蒸気機関車避難壕 見学の校外学習
午前:明治時代以降の地図を見ながら、地元の昔の姿に思いを馳せました。
近江国 全図 明治15年
村の位置などは、結構アバウトに書いてあります。 琵琶湖の形も簡略化されています。
近江地図 明治18年出版
銅板印刷、上が、東となっています。
近江国実測図 明治19年
現在の地図の原型
鉄道計画図(米原―京都間)
イギリスの技師が書いた設計図です。先生のお宝です。鉄道路線はなるべく直線として最短ルートを考えていた事がうかがえます。
この計画図から連想される事例として、
・旧近江八幡市街に鉄道が通らなかった理由は? 地元の反対というより、線路の直線化を優先した鉄道計画のためでは?
・能登川駅は、計画地より、彦根方面に変更された理由は? 現在の能登川駅は、設計図では、能登川町付近に作るはずだったが、実際は、もう少し彦根よりの垣見町、林町に移動 した。これは、能登川付近の地盤が弱く駅工事に費用がかかるので、垣見、林の有力者が、駅地の提供を申し出たことで場所が移動したためです。
皇居鳥瞰図 松井先生が書かれた大作の紹介
午後:車に分乗して、岩脇蒸気機関車避難壕 見学に出かけました。
現地では、岩脇まちづくり委員会 藤本伝一さん のお話を伺い、岩脇蒸気機関車避難壕 現場を見学しました。
この壕は、第2次世界大戦の末期(1945年)蒸気機関車を敵の爆撃から守り、物資と兵員の輸送の確保のために運輸省鉄道総局が緊急秘密工事として進めたものです。
主に朝鮮人労働者の手で、掘削されましたが、終戦とともに、完成せず、長年放置されていあした。平成20年から、「いをぎまちづくり委員会」の手でトンネルが整備され
現在に至っています。
壕の横の山には、阿弥陀三尊石仏(鎌倉時代)をご本尊とする、岩屋善光堂があります。当日はこちらも見学しました。
-
午前:講義 鉄道地図 明治15年
鉄道は長浜~柳ケ瀬間で、その後、刀根までは徒歩です。刀根からは鉄道で敦賀まで行きます。京都~大津間は、大津から浜大津間はスイッチバックになっており、駅の位置が頻繁に変わったようです。
-
近江の地図 明治18年
測量地図が出版される直前の自由さがある手書きの地図です。郡名、村名、旧宿驛、新田、驛路里程、裁判所、郡役所、警察署、道路、船着場、鉄道線路などが記入されています。
-
滋賀県の測量図 明治19年
初めて出版された滋賀県測量地図です。伊能忠敬の地図がベースになっています。これからはこの地図が元になります。もう自由に描けません。
-
米原~京都間の鉄道計画図
先生の宝ものです。超ロングな巻物です。表題はKIOTO TO MAIBARAと書いてあります。平面図、縦断図、線形要素が描いてあるので、京都~米原間の鉄道建設の計画図(設計図)のようです。
-
皇居鳥観図(松井先生作成)
松井先生が作成した皇居の鳥観図です。上皇さまが退位宣言した時から書き始めたようです。
-
彦根城鳥観図
「彦根城の鳥瞰図」です。 課題である自分の家の鳥観図の参考として見せてくれました。
-
永源寺の鳥観図
「永源寺の鳥瞰図」です。 我が家の鳥観図の見本として見せてくれました。
-
太郎坊の鳥観図
「太郎坊の鳥瞰図」です。 課題の我が家の鳥観図の見本として見せていただきました。
-
各種鳥観図を見ています
みなさん、どの鳥瞰図を参考にしようかと考え中です。
-
午後:校外 岩脇公民館
避難壕は太平洋戦争の末期に、米原駅の蒸気機関車を敵機の爆撃から守り、物資と兵員の輸送確保のため、運輸省鉄道総局が緊急秘密工事として進めたものです。(いをぎ町づくり委員会 藤本さん説明)
-
避難壕遺跡案内図
避難壕は2本あり、東側のトンネル(130m)は貫通していますが、西側は未貫通です。工事中に終戦を迎えたので、中央部を残し、掘削を終了しました。日本では機関車の避難壕はここだけです。
-
東側貫通トンネル北側入口
東側貫通トンネルの北側の入口です。上下2段工法で掘削されています。現在、入口は水がたまり、足場を設置したので狭くなっています。
-
貫通トンネル内部
完成前に終戦を迎えたのでトンネルの断面は、機関車を入れるには不十分です。 「2013.8.27NHK大津放送局SLを守れ」と「2018.8.18関西情報ネットten終戦特集」などで放送されました。
-
貫通トンネル南側出口
貫通トンネルの南側に出ました。トンネル南側出口断面は大きくなっています。
-
貫通トンネル南側出口周辺
トンネル南側出口を出た所です。遠くの山裾が米原駅方向です。電柱の部分が東海道本線(上り線)です。その間の田圃に昭和22年の米軍空撮写真では避難壕とつながる2本の線路の路盤がありました。
-
未貫通トンネル南側入口
未貫通トンネルの南側入り口です。避難壕の掘削は中国・朝鮮人労働者が行ったといわれています。(水谷孝信氏、本土決戦と滋賀、2014年サンライズ出版参照)
-
未貫通トンネル内部
西側未貫通トンネルの奥行は52mです。岩脇山の岩質が硬く、火薬を使用したと思われる痕跡孔がみられました。
-
資料館
資料館には避難壕の見学写真などを展示してあります。真冬の風雪に耐える壕の「つらら」が垂れ下がった写真、資料館建設の記録写真もありました。
-
善光寺(下方からの全景)
舞台造りの建物です。善光寺ゆかりの寺です。本多善光さん(信濃)が、難波から三尊像を持ち帰ろうとしたとき岩脇で仮眠をとったとき、夢を見て、三尊像を岩脇に祀るようお告げを受けたのがはじまりです。
-
善光寺入口
善光さんはこの不思議を土地の有志に告げ、小さなお堂を建てた後、信濃の国に旅立ちました。602年(推古天皇10年)の出来事です。
-
頂上から伊吹山
岩脇山の山頂からの眺望がよく、琵琶湖の竹生島から伊吹山まで見ることができました。 以上で本日の郊外学習は終了です。機関車避難壕を見学し、戦争について、考える1日になりました。