古地図で訪ねる北近江 江戸時代~明治時代
松井先生の1回目の講義 6月21日(水)
この講義では、古地図から当時のいろいろな情報がわかる事を学びました。
松井先生が取集され所蔵されている古地図を実際に見ることで、地図が作成された時代の村、街道、藩の所領等が確認でき、ここから
得られる情報が多くありました。古地図は過去の情報を視覚的に素早くに知る事が可能であることを学びました。
街道の命名方法の解説
京都から見た方向で街道は命名されている事、例えば 京都から東へ向かう街道は 東山道(中山道)東海道 となっている。
地名についても、京都から山を越えると "・・越" がつくので、 越前(福井)、越中(富山)、越後(新潟)となっている事など、学びました。
明治時代に、廃藩置県で近江の国の名前が変わり、滋賀県となっていった経緯のお話
明治初年の近江は、次の12郡、栗太郡、滋賀郡、甲賀郡、高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛知郡、神崎郡、蒲生郡、野洲郡 で構成されていたが、
明治4年の廃藩置県によって、
滋賀郡,栗太郡、甲賀郡、野洲郡、蒲生郡 が、大津県に 神崎郡、愛知郡、犬上郡、坂田郡、浅井郡、伊香郡、高島郡 が長浜県となりました。
明治5年に、大津県は、滋賀県に改称、長浜県は、犬上県に改称されました。その後、滋賀県と、犬上県が統合され、全域が滋賀県となりました。
なぜ、滋賀の県庁は大津なのか?
明治維新では、井伊は、政府の政敵だったので、冷遇され、滋賀で一番大きい城を持つ地域であった彦根は無視され、大津に県庁がおかれたと考えられます。(所説あります)
地図から見える行政境界、飛び地
幅90センチの境界の謎や、人の暮らしの歴史が関係している事を学びました
川をまたぐ行政区;佐賀、福岡、筑後川、川の付け替えなどで、行政区が川の両側にまたがっている地域がある。
山の尾根のみ福島県のところがある。(その幅90センチのところあり)福島と、山形の県境、飯豊山山頂に鎮座する「飯豊山神社奥の院」の麓宮は、福島県喜多方市の、一の木村にあるので、奥の院は一ノ木村土地であるとの主張が明治40年にとおり、そこに行く尾根道と、飯豊山が、福島県となっているのです。
飛び地:和歌山県北山村、奈良県内に村ごと飛び地となっている、 広島県大竹市山の下に境がある(イソ神社)
また、地図の種類には 測量図、伝聞図 等があります。明治29年9月滋賀県で起こった大水害 を記録した伝聞図があることも学びました。