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広重 中山道 鳥居本宿より引用 今の鳥居本宿は旧鳥居本村に、北の上矢倉村、南の西法寺村、百々村が加わって(加宿)、鳥居本村となる。 宿場以前は佐和山城にもっとも近接する街道(東山道)沿いの集落として、城下町の機能の末端を担っていた。 小野村が旧宿場で幕府の命により1600年代に現在の鳥居本宿となった。 。 また、石田三成が佐和山城、城主の時代は鳥居本が城下町の役割をはたしていた。 当時は現在の彦根市松原付近や米原駅付近は内湖が広がり、現在の彦根城あたりまで続いていた。 現在では当時を想像することすら出来ない光景であったようだ。佐和山城から北側は内湖が現在の彦根城あたりまであり、海上交通も頻繁だった。 佐和山城は交通のかなめに位置し、北は北国街道が見わたせ、西に琵琶湖、南は現在の彦根市、遠くは近江八幡市まで見わたすことが出来る。 もともと佐和城は鳥居本を城下町として作られており、鳥居本宿より佐和山城跡を登る時、家臣の屋敷跡、内堀 外堀も遺構が残り、当時の 面影を垣間見ることが出来る。 現在交通路はJR東海道線も米原からの自動車道路も佐和山城と彦根城の間を通り彦根市内となっている。 当時は中山道、番場宿から摺針峠を越え鳥居本宿へとつながるのが主要街道であり、今では想像できない。 江戸時代になると鳥居本宿と番場宿は摺針峠越えをしなくてはならず荷物の運搬が難しかった。 そこで現在の米原へ迂回し中山道からすると遠廻りになるがなだらかな迂回路を整備。 これが米原道(北国街道)と呼ばれ番場宿へとつながる。 JR米原駅東口に過去を象徴する帆かけ船のモニメントがあり、東口も昔は港であり、大津や今津から船により運ばれた荷物を中山道で運搬とある。 今の米原駅全体がびわ湖の一部で周辺が内湖だったとは・・・・・・ 想像できませんが。 鳥居本には二つの分岐がある。一つは北国街道への分岐で、鳥居本宿で分れる北国街道は米原より長浜市へつながる脇街道である。 もう一つは彦根道と呼ばれ、中山道と彦根城下をつなぐ道。佐和山城が城として機能していた時代には、太鼓丸の堀切を経て鳥居本側の城下町と 彦根側の城下町をつなぐ城内の道であり、よそ者の往来はなかった。この道が鳥居本と彦根城下が通じるのは彦根藩 2代当主井伊直孝の時代の 時である。 この道は彦根道(切通し道・朝鮮人街道)という。 朝鮮人街道の始点が鳥居本とはあまり知られていない。 |
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商売の看板は写真のように2階に上げるのが 正解で当時の面影を残す。 |
旅道中、雨も降り現在のカッパの原形で、油紙 柿しぶや紅がらを混ぜ雨を弾かせる雨具でナイ ロンの出来るまで鳥居本では十数件の製造業 者があったが現在は無いとの事。 |
現在も残る合羽看板 |
火災時、類焼を防ぐため、全面に板戸をはめる。 板戸をはめる溝が石に刻まれている。 上部2階には袖壁があり、類焼を防いでいる。 |
昔は立派な門構えの扉だった思える。今は小屋の扉 になっている。 この家は元本陣との事。この扉はもしかして本陣の名 残かな。 |
赤玉神教丸本舗の店舗 重厚な建前が今も健在で昔ながらの雰囲気を出して いる。屋根の瓦は彦根城にも劣らない寄棟瓦がすばら しく文化遺産の指定を受けているとか。 |
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