東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道 江戸幕府の統治を主目的に設置。1716年に幕府が公定した。 江戸時代始めのの宿場は幕府が直接掌握するところではなかったが、寛永年間(1624~1643 ) 宿場制度の整備・確定 寛永 11年 (1634年) 徳川家光の上洛 寛永 12年 (1635年) 武家諸法度の制定 参勤交代制度の確立 (15条 道路、駅馬、船、橋など支障のないように整えて、参勤交代の行き帰りに停滞がないようにすること) 江戸時代の宿場の指名は、幕府が定めた多くの特権的な通行を保障することであり、そのために人や馬を用意し、宿場間を次々に継ぎ送るとともに、 通行者に応じてその休泊をも提供することであった。こうして業務を負う、いわば見返りとして、宿場は一般通行者に宿泊を提供できる特権をもった。 (文章は教材より引用) 参勤交代時の大名行列の宿場・道(幕府がきめた行事) 大名を宿泊させる義務が宿場にはかせられた。 宿場には二重の支配があり、1つは幕府(道中奉行)支配の問屋 (人馬継立・休泊・飛脚・街道維持管理) (道の修理・整備・橋の修理などを問屋がしていた) もう一つは、与えられた領地に対する年貢徴収・行政で、庄屋(名主または領主)と呼ばれた。 ○ 各宿場には、本陣・脇本陣 本陣 1軒 脇本陣 2軒程度の宿場が多い。大名の当主が宿泊する宿 ○ 高札場 宿場の中央もしくは入口に必ず高札場があり、法令や禁令を板札にさまざまな高札が掲げられていた。 ○ 問屋 人足・馬を常備 中山道の場合 各宿 50人 馬 50匹 ○ 常夜燈 ○ 道標 ○ 一里塚 幕府が江戸の日本橋を起点に旅人が目的地に向かう目標に約4kmごとにえのき・松・杉などを植え目印とした。 ○ 見附 宿場の入口に設けた。もともと見附は、城の外に番所を置いて、人々の通行を監視したことから生まれた名称で、 大名が宿場に滞在した時は家臣が宿場の入口を監視した場所と言う。 (いまでも東京の赤坂見附など地名として残る) 各国の大名が宿泊する宿場の本陣・脇本陣など滞在費用はあまり望めず、逆に地元の名物や郷土料理にてもてなした。 本陣・脇本陣は地元の盟主がつとめているのが殆どで、別に商売をしているケースも多い。 |
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広重 中山道 高宮宿より引用 |
高宮宿は中世の時代より栄えており、高宮布がよく知られていた。江戸時代には、当初より中山道の宿場として賑わった。 中世の時代は高宮を領した高宮氏には2系統があった。 偶然ではあるが両家とも高宮氏であり、北殿の高宮氏、南殿の高宮氏と呼ばれ支配を二分していた。 時代の流れにより、南殿の高宮氏が力をつけ六角氏や京極氏支配の時代には当初六角氏後には京極氏に加担、その後浅井氏に仕えた。 高宮には高宮城があり、浅井氏の小谷城落城の際、城に火を放って一族は離散した。 今も高宮城跡として石柱標識があるのみだが学校校庭には当時の井戸が地中に存在するとの事。 |
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