江戸より62番目の宿場で、本陣 1軒 脇本陣 2軒 問屋、庄屋があり、 旅籠屋が10軒とある。
現在でも西番場、東番場の字名が残るが、慶長 16年(1611年) 米原道の開設により、西番場から東番場に中心が移る。
今も中山道と米原道の分岐が東番場にある。
前回、鳥居本宿でも記載したが荷物の運搬で摺針峠を越えるのが難しかった。そこで幕府は米原から番場宿まで平地道を整備し米原道(北国道)とした。
標高384mに築かれた中世後期~近世初頭の山城。東山道を抑える要所に位置している。近年の発掘調査で大堀切・大石垣・枡形虎口などが出土し、国指定遺跡となる。
鎌刃城は、応仁の乱の頃に堀氏によって築かれたと推定されており、六角氏と京極氏の対立の際には六角氏につき、京極勢から攻撃をうける。
やがて浅井氏が台頭してくると浅井氏に着いたため、たびたび六角方の攻撃をうけるようになる。
織田信長が近江に侵攻し、やがて織田と浅井が反目するようになると、堀氏は信長方に着き、今度は浅井氏の攻撃にさらされるようになったが、信長の軍事拠点が北の
地頭山や能登瀬(旧近江町 能登瀬)方面に移動したため、鎌刃城はしだいに廃れていったと考えられる。
(教材資料を引用)
浄土宗。 聖徳太子創建の伝承をもつ古刹であり、寺伝によればかつて法隆寺と号し七堂伽藍を構えていたというが、健治2年(1276年)に焼失した。その後、弘安7年(1284)
に治宗の一向上人俊聖が中興。
元弘の乱では、元弘3年(1333)に後醍醐天皇が北条仲時をうつ 「みことのり」を下すと、足利尊氏は六波羅探題を攻めた。京を追われた仲時一行が番場まて来たとき、
京極導誉に行く手を阻まれたため、もはやこれまでとこの地で仲時以下430人が自害して果てた。
現在、お寺には六波羅南北過去帳(重要文化財) 当地で自害した北条仲時以下430人の過去帳がある。
(教材資料より引用)
祭神は「直孝彦命」。寛永20年(1643) 11月に村人が2代井伊直孝を慕って直孝神社と称してきたが、明治初年に社名を溝尾神社に変更して今日に至っている。
神社として名称が井伊直孝の名前がついているのは非常にめずらしいとの事。
現在も井伊直孝からの栗と柿の陣中見舞いの書状が残る。
慶長16年 (1611)に開設した中山道番場宿と米原湊をつなぐ道。北村源十郎が彦根藩の意向を受けて敷設した。
この道が中山道を迂回し、摺針峠をさけて運搬道として利用された道。
現在も石柱標識も東番場に残っている。
蓮華寺の立派な勅使門。扉には天皇家の御紋。 聖徳太子ゆかりのお寺。 |
北条仲時と家臣430名が京極導誉に行く手を 阻まれ自害した。後の時代に供養塔。 近くには北条仲時の供養塔もある。 |
蓮華寺には、長谷川伸の「瞼の母」の主人公で有名な番場の 忠太郎ゆかりの地蔵がある。 台座には「親をたずねる子には親を、子をたずねる親には子を めぐりあわせたまえ」と刻まれている。 |
本陣跡の石柱標識 新しい石柱 |
問屋場跡の石柱標識 |
脇本陣の石柱標識 |
別の問屋場跡の石柱標識 |
|
溝尾神社 (直孝神社) 彦根藩主 2代 井伊直孝を合祀している神社。 彦根藩主 井伊直孝と番場には特別な関係があ ったのか。 |
彦根藩主 井伊直孝の神社の鳥居と晩秋の絶好の 天気に散策しながら学習する生徒。 |
鳥居本から米原、番場宿へ平地道として整備された 分岐にある石柱標識。実際はもう少し離れた小道が 元の米原道らしい。 現在は大きな交差点に立つ。 |
番場宿入口に立派な中山道 番場宿の石碑 と小さな公園が整備されている。 |
久礼の集落の外れ、現在の久礼集会所付近に 存在した。江戸時代の絵図の中には、南側の塚 に榎が1本、北側の塚には榎が3本描かれたもの がある。ちょうど名神高速道路と北陸道の分岐の 下付近。 |
山あいの現在ではひっそりとした感じの宿場でした。当時の旅人は鳥居本宿から摺針峠の山道を越えたどり着くのが番場宿、醒ヶ井宿からも山道を越え
着くのが番場宿。山あいの一里塚があるのを見ると、醒ヶ井宿、鳥居本宿の中間に位置した宿場だとわかる。
旅人も歩きくたびれ多く人が一夜を番場宿で疲れをとって旅立ちをしたのだろう。
現在は、バイパス道路の米原道が国道21号線になり、時代の年月の変化にはおどろく。横を名神高速道路、北陸道が通り、その横に中山道がある。
蓮華寺も参道の上に名神高速道路が走り、いつも通る高速道路が中山道と並行に走っているとは・・・・・ 番場宿を訪ねて知った事だった。