当日はあいにく曇り空の肌寒い日でしたが、午前 9時 30分JR高月駅集合。レンタル自転車でスタート。
ボランテァガイドさんから挨拶と説明を受けた後、一番目の大圓寺高月観音堂へ向かいました。
本日のコース 大圓寺観音堂 →芭蕉の碑 →高月観音の里 歴史資料館 →向源寺渡岸寺観音堂 →雨森芳洲庵 →赤後寺 → 正妙寺(千手観音菩薩) →西野隧道 →井上靖記念館 → 高月駅観光案内所ミーティング →解散 講師はいかいゆり子先生で共に自転車でスタート。 。 |
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JR高月駅前にて 38期生 赤のおそろいユニホームの生徒 | |
大圓寺本堂と参道 芭蕉の碑 樹齢八百年 杉の名木
大圓寺観音堂は、延暦 7年(787年)の九月、伝教大師最澄はこの地に滞在して、十一面千手救世観音菩薩像を彫刻したとある。
この観音様は火災から人々を守る御利益の「火除けの観音さま」てもあり当日は「火の用心」の御神をいただきました。
本堂には本尊十一面千手観音立像・薬師如来像・弁天坐像などがあり、世話方の皆さんより詳しい説明を受けた。
また、境内には樹齢 800年あまり経つた杉の名木があり「おしどり杉」と呼ばれている。
本尊十一面千手観音立像・薬師如来像・弁天坐像も昔は秘仏で公開されていませんでしたが現在は公開されています。
史 | ||
歴史民俗資料館には、「観音の里」の信仰文化として多くの観音菩薩像が展示してあり 湖北地方の風景や奉納品の写真が展示されている。 高月の観光中心的な役割をはたし、町内の歴史・文化を紹介している。 昔は立派な像であった西黒田・安念寺のいも観音を始め、多くの観音像が展示してある。 昔懐かしい農具を始め、昔の暮らしがわかる展示物もある。 また、湖北地方特有の「おこない」行事も紹介されて展示物も必見 !! |
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歴史民俗資料館の全景 |
十一面観世音菩薩像も今から約1250年前、当時都に疱瘡が大流行し死者が相次いだので、天皇は除災の祈祷を僧泰澄に勅せらた。
泰澄は勅を奉じ、祈願をこめて十一面観世音を刻んだと伝えられある。
以来、病い除けの霊験あらたかな観音像として敬仰せられ、多くの仏像を安置していたとある。
しかし、戦国時代になると浅井家・織田家による戦さにより焼失の危機にみまわれた。住職巧円と住民達は、兵火が堂宇を襲うや猛火を
冒して搬出しましたが、お守りする堂がなく、やむなく土中に埋蔵して難をまぬがれたといわれている。
向源寺と渡岸寺のいわれ 浄土真宗本願寺は十一面観音像を 堂内に奉り安置が許されなかった。 そこで住職は向源寺より離れた場所 の安置するため、渡岸寺を別敷地に 本堂を建立し、十一面観世音菩薩像 を安置した。 現在は渡岸寺の方が知れわたるよう なった。 正式は向源寺 渡岸寺という。 |
文章がここに入ります | ||
渡岸寺の山門 渡岸寺の本堂 | |||
二肉感的で腰を軽く左に捻った躍動的なお姿、耳トウ呼ばれる耳飾り、大きく作られた頭上部など数々の特徴の特徴を持つほか眉から 鼻にかけての秀麗な線、柔らかく結ばれた美しい口元など七体ある国宝・十一面観音像の中でももっとも美しいとされ、特に官能的でさ えあると表現される。 かつては光眼寺の所有であったが戦火により堂宇は焼失、本尊は村人たちの手により土中に埋められ難を逃れ たと伝わる。祈りの仏にふさわしい慈愛に満ちた姿の観音さまとして有名である。 (パンフレットより引用) 当日は向源寺住職の詳しい説明をうけた。 国宝で写真公開はできませんので観ていただけないのが残念。一度訪ねて十一面観音菩薩をみてください。 井上靖など著名な作家がこの十一面観音菩薩を題材に発刊されています。 |
雨森芳洲は江戸中期の儒学者です。22歳対馬藩(長崎県)に仕えた芳洲は、自らハングル・中国語を学び「外交の基本はまごころの交わり
である」と主張し、日本と朝鮮の善隣外交に尽力しました。(パンフレットより引用)
雨森芳洲庵では、平井館長より雨森 芳洲の生涯についてくわしい説明をうけ、見聞しました。
現在も雨森芳洲庵では、各イベントを始め対馬を始めとし、韓国との交流も深め、雨森地区の街つくりを推進されています。
雨森 芳洲庵 看板と玄関先 立派な庭園
平井館長より説明 雨森芳洲像 朝鮮使節団の衣装
芳洲庵で休憩中の北近江文化学科 38期生のメンバー 芳洲像と展示物
高月町には大きなケヤキが多くあり、平成 2年度に槻(ケヤキ)の木 10選を選んだ
このケヤキは幹周り 8.5mと特別大きく、高月町の横綱級 とにかくすごい !!
御本体は聖観音立像千手観音立像の二対でいずれも像高約 180cm檜一本造り木心乾漆風技法の彫刻である。
今より 1200年前平安初期の作といわれ創建以来秘仏として公開禁制を堅く守ってきたが昭和四十四年国の重要文化財の
指定を受けるに至り、これを機会に初めて禁制を解き千年の帳扉を開いたのである。 (パンフレット゜より引用)
姉川の合戦につづく賤ヶ岳合戦とつわものどもの夢の犠牲となった文化財は枚挙に暇もない。その激しい戦火の中に只一つ
今も尚厳然として1200年前の端麗な容姿を残しているコロリ観音こそ如何に住民の信仰の的であったかを知ることが出来る。
(パンフレットより引用)
毎年行われる御開帳 ( 7月 10日)に おまいりを3回すると転利(コロリ)と極楽往生できると言われる。
これが転利(コロリ)観音と呼ばれる所以であった。
観音像には手がなく、戦火を逃れる目的で川に石の重りを付け沈めておまもりしたという。その時、十一面観音や手が流失した。
痛々しい観音像も1200年の年月守り継がれるのに十分なお姿であった。
高月町西野地区の北側山裾にひつそりと湖東山正妙寺はあった。少し山を登った中腹に正妙寺があり、地区の世話方の
説明を受けた。この寺は37期生の伝説紙芝居で本年度取り組まれた阿曽津千軒であった。
その昔、琵琶湖湖岸にあったといわれる阿曽津の地。推測するとひと山越えた琵琶湖岸に人々は暮らしていたと思われる。
いつの時代にか琵琶湖に大津波が起こって、この村は荒廃しついには湖中に沈んだ。
人々は山を越え現在の西野、松野、熊野、東柳野、柳野中、西柳野、磯野の七ヶ村に移り住んだという。
そんな伝説があるそうです。
正妙寺はこじんまりしたお堂で、その中に十一面千手千足観音菩薩像はありました。大変小さい像で高さは42cmくらい。
世話方の説明によると、千手千足観音菩薩像はあらゆる人々をどこまでも助けにいくという願望をもった観音とされている。
本像のような千手千足観音像は、全国唯一この地だけと思われると説明をうけた。
江戸時代 高月町西野は、約100戸の住民が住んでいた。生活用水の水は、「カナケ」と言われ、鉄分が多く、日常生活に
困っていた。ただ北部の山水は、年間を通じ、水量があり、生活用水として活用することが可能であったので、飲料水として
活用することにしたのである。
そこで浅井町三田出身の宮大工として湖北の神社建立につくした人で藤岡甚平衛に相談し、当時水道の無い時代に元池を
作り、各家庭に水道管を敷設したことである。
その方法は、日枝神社の境内に元池を作り、竹の節をくり貫き配水管としたのである。50m位おきに木製の桶を設け、水を
サイホンの原理で、上昇させて順次遠くに運ぶ方法をとったのである。 1740年 3月に着工し、大桶314間(560m)、筒池から
小桶212間(380m)の現在のような上水道を敷設したとある。 (パンフレット引用)
当時としては現在のような水道業者もなく、江戸時代に上水道を敷設したこと自体画期的なことだったであろう。
筒池の水源石碑と神社境内の元池 ガイドさんより説明を受ける38期生徒
西野地区は昔から余呉川が流れていた。西野地区は地理的に低く、余呉川が増水するとかえって逆流する土地であった。
増水時、田畑は冠水して湖のようになり、田畑が水に浸かりただ水が引くのをじっと待つしか方法がなかった。
文化4年(1807年)、天明3年(1783年)、天明7年(1787年)の大洪水と大飢饉には、西野地区は徹底的な打撃を受け壊滅的な
状態に陥った。米の収穫は皆無に近く、人々は山でどんぐりの実を拾い、くずの根を堀り、雑草を食べて生活した。
水田の水が早くひくようにしてほしい。それが村人の心からの願いであった。
西野充満寺の僧 恵荘師は、この連山の下にトンネルを掘り、余呉川の水を直接琵琶湖に放流することを計画。住民を説得
して1840年(天保11年)、能登より石工3名に依頼しトンネル工事が始まった。
琵琶湖側より39mまで掘り進むが岩盤が堅いので東側からに変更。20mほど掘り進んだが堅い岩盤にあたり、能登の石工は
帰郷してしまった。新たに伊勢の石工3名に依頼し掘り進む。住民は石を外へ運びだし、井伊藩の援助を受け1845年6月3日
念願の水道が貫通する。6年におよぶ工事であった。村人は我を忘れて喜んだとある。
ガイドさんから説明を受ける生徒 西野隧道に入る生徒 琵琶湖側の西野隧道
隧道は高さ2m、幅1.5m、延長225m。石工の手彫りであり、 当時の難工事を感じた。 琵琶湖側と西野側から彫り進んだとあるが、最終的に貫通さ せた当時の土木技術水準もすごい。 石工を始め、延べ一万人余の人が働き、六年の歳月をかけて 完成している。当時のお金で1.275両(現在のお金で5億円)が かかったとある。 そのためか、西野地区の山名義は他地区が多く区民が山を 売り資金にあてたとある。 西野地区の先人の苦悩が読み取れる隧道めぐりだった。 現在は3本の隧道が存在するが、一度は訪ねて先人の汗の 結晶をみていただきたい。 |
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琵琶湖側隧道出口にて、先生、ガイドさんと生徒 | |||
西野隧道をくぐり抜けるとそこは奥琵琶湖の雄大なパロラマの世界でした。ここも必見ですよ !!
遠くに竹生島がみえる西野隧道の出口の風景
高月町のボランテァガイドさん始め、各地区のボランテァガイドの皆さんたいへんお世話になりありがとうございます。