高宮宿

 
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高宮宿は、中山道六十九次のうち江戸から六十四番目になります。
 天保十四年の記録によれば、町の南北の長さ、七町十六間(約八百米)
 総戸数八百三十五軒、人口三千五百六十人、本庄宿※Aに次ぐ中山道第二の大きさで、本陣1、脇本陣2、旅籠数23などの施設を持っ大宿であったと伝わります。 
 また多賀大社への門前町としても賑わい、多賀大社一の鳥居が宿中程に建っています。
 特産物として、室町時代から全国的に有名になっていた高宮上布の集散地として、豊かな経済力を誇っていたのです。
 
特産物として、室町時代から全国的に有名になっていた高宮上布@の集散地として、豊かな経済力を誇っていたのです。


 高宮上布を商う店のようす「近江名所図会」

無 賃 橋 

中山道が犬上川(高宮川)を横切る地点は、かって橋のない徒歩(かち)越であり、出水時には有料の川越人足が活躍した 

昭和4年(1767)仮橋を架ける・・・出水時のみ橋板を架ける。 
 しかし、増水や急な出水で橋板が流される時は、依然として河越人足に依存。                            

 天保年間の初め(1830〜1843)・・・・・「無賃橋」の架橋   
 彦根藩が、藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門ら有志に命じて広く募った義捐金で架橋して、通行人に無料開放。天保3年銘の石碑あり。                         


現存する高宮宿本陣の表門




 宿場には、宿場機能を維持する職種とは別に、旅宿のための本陣・脇本陣旅籠屋・茶店と言った施設が設けられていた。本陣・脇本陣は大名や勅使※(3))公家・旗本などの公的旅行者が休泊するのが原則であった。一般の旅行者は旅籠屋に泊まり、茶屋で休息をとった。

 高宮宿には本陣1軒・脇本陣2軒があつた。

  高宮神社の参道南側に位置し、天保4年(1833)頃に建立。
 馬場家は、宝暦年間(1751〜64)に薬種類を持参する旅商い(行商)を開始し、中山道を中心に商圏を拡大。 寛政10年(1798)に甲州に出店すると呉服類の卸行へと転身をはかる。

H26/10/08 「高宮宿」の校外学習に於きまして、馬場家当主の計らいに寄り 、家の中に上げて頂き、お話を聞く事が出来ました。話の中で、土蔵は、主家入口付近に4棟存在しますが、以前はこのほかに3棟ほど存在しました・・・・・・・一同規模の大きさに圧倒
 
 最後に、谷口先生から、「このように、馬場家は中山道を中心に広範な商業活動を行った近江商人であり、高宮を代表する商家として庄屋を兼ねることもありました。現存する建物は、そのことを物語る重厚な造りであり、上級商家の当時の暮らしを知る上でも貴重な歴史的建造物と言えるでしょう。」と締められました。
                               
 ※  解説文は、「ようこそ たかみや へ」の観光パンフレットより、転載しております。
 
  
 


























































                                          説 明

(1)上布(じょうふ)は、細い麻糸を平織りしてできる、ざらざらした張りのある上等な麻織物。 縞や絣(かすり)模様が多く、夏 ... 越後地方で生産される。雪晒し(ゆきさらし)(早春に雪の上でと雪から蒸発 した水分に強い紫外線が当たることでオゾンが発生し漂白)をすることが特徴である。 (元に戻る)

※(2)  本庄宿は、中山道六十九次のうち江戸から数えて10番目の宿場。 武蔵国児玉郡の北部国境付近に位置し、武蔵国最後の宿場。現在の埼玉県本庄市に当たる。江戸より22里の距離に位置し、中山道の宿場の中で一番人口と建物が多い宿場であった。 Wikipediaより
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※(3) 勅使(ちょくし)とは、天皇皇帝など国の元首が出す使者のこと。  Wikipediaより   (元に戻る)