校外学習(永源寺)  令和7年10月21日(火) 9:50 現地集合 曇り
                            北近江文化学科講師 山本 一博 先生       戻 る
46期北近江学科生は、2年生初めての校外学習となった「永源寺-危機一髪 信長の千草越」
について学びました。
最初に、東近江市永源寺如来地区の街道分岐点(八風街道と千草街道)の現地を視察し、
白鳥社城「市原の城・千草街道」への当時の土塁の跡を確認しました。

白鳥社城の北側土塁は東西40m以上、西側土塁も40m以上、高さ1.5m~2.5mである。
1570年(元亀元年)、織田信長は朝倉攻めに失敗して退却する際、千種越え(千草街道)
を通りました。その途中、対岸に潜んでいた杉谷善住坊に鉄砲で狙撃されますが、幸い命
は助かりました。善住坊は、信長の退却ルートを予測し、千草街道の渋川沿いにある
「隠れ岩」と呼ばれる巨岩の上から狙撃したと伝えられています。

信長はこの危機を脱した後、高島に身を隠していた善住坊を捕らえ、1573年(天正元年)
に壮絶な最期を遂げさせました。千草街道は古くから通る人がいた街道ですが、織田信長
の狙撃事件があったことで、歴史的に広く知られるようになりました。

続いて、甲津畑町に移動し、樹高/6m、幹周/25m樹齢/推定250年、織田信長が近江に来
る際には、速水家で休息されたと伝えられている信長が馬をこの松の木に繋いだことから
「信長の駒つなぎの松」と呼ばれている。当日参加者の記念写真を取りました。

最後に、永源寺の高野館(高野城)を見学しました。織田信長の側室となったお鍋の方ゆ
かりの平城で、発掘調査により石垣や虎口などの遺構が出土した跡で、現在は高野館遺跡
で残っており、田畑が広がっています。



街道分岐点(左: 八風街道  右: 千草街道)

 
    八風街道                         千草街道


 


 
白鳥神社(白鳥社城跡 土塁遺跡)   


   甲津畑 「信長の駒つなぎの松」の前でメンバー記念写真



 
   現在でも「千草街道」が偲ばれる            お鍋の方高野館屋敷遺跡

 
山本先生からお鍋の遺構についての説明