戦国合戦と北近江の街道

長浜市市民協働部 学芸専門監 太田浩司
2021,12,10  米原学びあいステーション

 一般に日本史における戦国時代は、応仁文明の乱(1467)から大坂夏に陣(1615)までを指すが、北近江では小谷城落城(1573)の浅井氏滅亡までを指す。前半は佐々木一門の京極氏が統治し、後半は浅井三代が統治した。その後は、秀吉の長浜城、石田三成所縁の佐和山城が歴史に名を遺す。
 この間、中山道、北国街道、北国脇往還を基軸に、山城がたくさん築かれ、姉川の合戦、賤ケ岳の合戦など有名な戦(いくさ)が行われている。姉川や、川中島(謙信と信玄)等の大きな河川は、現在よりも川床が高く、平らな個所が広がり、集団の合戦に向いていた。
 浅井氏より前に湖北一帯を統治した京極氏は、高清(1460~1538)の時代には、現在の国道21号線沿いの清滝寺遺跡や、能仁寺遺跡一帯に拠点を構えていたと思われる。因みに現在米原市の清滝寺徳源院には歴代の京極家当主の墓が祭られている。次の高広の時代には北国脇往還沿いの上平寺に城や館を構えた遺跡も見受けられる。いずれも街道沿いに面しているのが特徴である。
 浅井氏は浅井三代と小谷城とセットで語られ、全国的にも名を知られた戦国武将である。
 北近江の地は、京極氏、浅井三代、信長、秀吉など日本史に燦然たる名を遺す人物が割拠し、歴史好きには応えられない地域であろう。
 
  
湖北に名を遺す京極氏は宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。主に湖北を統治し、他に系譜に連なるのが、出雲を中心として一時は山陰を中心として11か国の国人を従えたという尼子氏(甲良町尼子に名を残す)である。六角氏は佐々木氏の本流であり、観音正寺城を本拠とした。佐々木源氏発祥の地として、近江八幡市安土常楽寺にある"沙沙貴神社"は佐々木姓所縁の神社である。
 青瀧寺徳源院(米原市清滝)は代々の京極氏菩提寺であり、江戸時代高豊が付近に散逸していた墓を1か所に集めたといわれている。もっともっと注目を集めてもよい史跡である。
 

羽柴(豊臣)秀吉の「美濃の大返し(1583年)」はご存じのように、賤ケ岳の合戦の前段階の行動である。その1年前には、さらに有名な中国大返し(1582年)を経て、秀吉は天下人へと上りつめていく。まさに秀吉は、情報を最も有効に活用し、時間というものの大事さを、生かした人なのであろう。そして「人たらし」といわれ、人心掌握術にたけた一代の英雄である。
 秀吉の思考力、情報や時間を何よりも大事にし、人間心理を読む洞察力は、現代の我々にとっても最重要課題である。(私ごとき凡人はとても無理)
 

賤ケ岳合戦の陣立図・・・南に秀吉、北には柴田勝家。将棋盤のように大将は最後尾に位置し、見晴らしのいい位置に陣取っている。勝家にとって前年の清須会議における秀吉の策謀に対する苛立ちと、賤ケ岳の合戦による敗北は、如何ばかりであったろう



「美濃の大返し」・・・大垣から賤ケ岳一帯を5時間で駆け抜けたが、道中、炊き出しの食糧や馬の餌を沿道住民に準備させているのは、秀吉及び配下の用意周到な性格の賜物である。計画的にか、突発的にかわからないが、現代人にこれ程の事ができるであろうか?