北国街道 木之本宿
~地域に残された古文書から~
             長浜城歴史博物館 福井智英
2021,12,3 米原学びあいステーション


 古くから、北国街道と北国脇往還が合流し、交通の要衝として栄えた「木之本」は、滋賀県湖北平野の北縁にあたり、木之本地蔵で名高い長祈山浄真寺の門前町として栄えた。
 宿場は北国街道沿いを本陣、脇本陣を中心に、旅籠、商家が両脇に並び、元禄年間(1688~1703)の記録によれば、戸数193軒、人口1,346人とある。しかし元文4年(1739)には270軒、寛保4年(1744)には156軒が消失する大火にみまわれている。昭和初期までは、街道中央に水路が通され、宿場の風情を残していたが、現在は埋め立てられている。
 木之本以北の北国街道は北国脇往還に続く道として、又、近畿に続く道として、越前から栃ノ木峠を越え、柴田勝家や江戸時代には北陸諸藩の参勤交代、貴人、一般の商売人などの往来を極めた。
 現在残されている"下川太右衛門家文書"や、"奥野家文書"などの宿絵図で江戸中期から後期の木之本宿の様子をうかがい知ることができる。
 また、木之本宿には本陣、脇本陣、輸送に際しての人馬の継ぎたてを行う問屋がそれぞれ1軒ずつ置かれ、一般の旅人は旅籠に泊った。
 本陣であった竹内家や木之本自治会には、宿駅関係の資料が多く残り、街道や宿での行き倒れ人への対応が手順を尽くして対応している事がわかる。
 また、木之本宿には、他所住人の往来手形が何通か残っているし、幕末の元治元年(1964)に加賀藩主前田家夫人溶姫の大名行列の資料も残されている。
 

この絵図は左が北で、北陸方面へ伸びている。中央の白地の所が浄真寺で、この寺を中心に宿が形成しているのがよくわかる。この絵図の見えていないが右側は、京都方向にまっすぐに伸びていて、途中上方向へは北国脇往還が発していて、関ケ原、大垣へと続いている。
 街道筋には、本陣、脇本陣、問屋、酒の醸造所、庄屋の家、旅籠、伝馬所などが両脇に並んでいた。


大名宿泊時の書付

布団を400人以上準備する際の騒動は如何ばかりか!!!
ましてや急な場合は?