課題学習 中間発表会 5,3,28
3つのグループから、それぞれのテーマについて全員が発表しました。
A:「人と歴史」をテーマにしたグループ5名です。
グループでは、近江に所縁のある「小堀遠州と紫式部」について取り上げました。
紫式部は、歌碑があちこちに建立されており、小堀遠州については、近江各地に彼の作庭した庭が現存しています。我々としては、文献に当たることも必要としながら、現地訪問が最優先として、計画を練りました。
令和4年12月2日に彦根「龍潭寺」の庭を訪れ、12月6日には、朝から、塩津神社近くの、紫式部歌碑を、長浜市の「近江孤篷庵」「理覚院」「赤井氏庭園」の各庭園を訪問しました。
また、12月12日には、安土の「教林坊」庭園、野洲市あやめ浜の歌碑、水口の大池寺庭園を訪問。年が明けて、5年1月31日には大津市坂本の「西教寺」「滋賀院門跡」、京の「高台寺-圓徳院」を訪問しました。
4月には、越前市の「紫式部公園」を訪問する予定です。
課題学習としては、各個人が訪問先について選択し原稿を書くことにしました。
なお、紫式部について、メンバーの松田が、「白髭神社」と「蘆山寺」にはお忍びで訪問しました。
紫式部は、996年父藤原為時が越前国司として赴任する旅に同行し、又、1年半後、京に、一人で帰りました。
途中、往路は琵琶湖西岸を、帰りは一人で琵琶湖東岸を舟で京まで帰りました。
近江の国には、それにちなんであちこちに歌碑が建立されています。
高島市の白髭神社には『三尾の海に編み引く民のてまもなく立居につけても都恋しも』
三尾が崎で網を引く漁民が、手を休める暇もなく、立ったりしゃがんだりして働いているのを見るにつけて、都が恋しい】
白髭神社
長浜市の塩津神社近くにも【しりぬらむ 行き来にならず塩津山 よにふるみちは からきものぞと】
【お前たちもわかったでしょう。いつも往き来して歩き馴れている塩津山も、世渡りの道としてはつらいものだということが。】
その他、塩津海道から、敦賀に抜ける深坂古道、父の赴任先の越前国府(現越前市)にある「紫式部公園」、野洲市の琵琶湖「あやめ浜」、帰り着いた京の祖父からの代からの住居(現 御所東側の蘆山寺)にも、いくつかの歌碑が建立されています。
丁度、令和6年1月からNHKの大河ドラマでは、「紫式部」が脚光を浴びる事でしょう。
蘆山寺
ここからは、小堀遠州の庭についての話です。
「近江孤篷庵」は長浜市上野町にある小堀家の菩提寺で、京都大徳寺に建立した「孤篷庵」に因んで「近江孤篷庵」と名付けられました。
江戸時代後期に小堀家改易の時以降、荒廃しましたが、昭和40年に再興され、遠州好みの庭も同時に補修整備されました。苔の美しい枯山水と池泉鑑賞式の庭園で、滋賀県指定名勝になっています。
紅葉の名所と言われますが、訪れたときは、紅葉の盛りを過ぎていましたが、苔の緑と落葉の紅のコントラストがきれいでした。
「赤田氏庭園」は、長浜市太田町の旧上草野村に位置する。
赤田家は嵯峨源氏で渡邊氏の流れをくみ、鎌倉時代越後赤田庄の庄司であった。
後に近江に流れてきた赤田氏の一族は、南北朝時代の南朝、北朝の戦いや、観応の擾乱時の戦いなどに名前が見える。
又、佐々木道誉の配下にも入り、甲良地域の土豪であった。
戦国時代は北の浅井氏の被官を受け、姉川合戦を経て、浅井氏が滅ぶと領地のあった現在地に帰農した。
江戸時代初期には、草野谷一帯は、小堀遠州を藩祖とする近江小室藩の領地になり、赤田氏は代々庄屋を勤めるようになった。
メンバーは予め現赤田家の方に連絡を取り、案内をお願いした。
当主の方は当日不在で弟さんに案内頂いた。
お庭は、正面左手に高い築山と枯滝石組を設け、池中に鶴島を配し、借景を取り入れるという本庭園の構成には、江戸時代に作庭されたとされる西本願寺虎渓の庭や米原市の福田寺庭園(枯山水)と類似している。
ただ、本庭園は豊富な水源を活用した池庭で独自性が認められる。
江戸時代初期に遡る民家の池庭は全国的にも類型が少なく、学術的にも価値が高く、滋賀県指定文化財となっている。
「教林坊」
令和4年12月12日に安土にある教林坊をメンバーで訪れました。
教林坊は標高433mの山上にある観音正寺の坊舎の一つであり推古十三年(605)に聖徳太子により創建されたときに併せて建立された。
庭内には「太子の説法岩」と呼ばれる岩や、ご本尊をお祀りする霊窟があり別名「石の寺」とも言われている。
信長の攻めにより、永禄11年(1568)に廃墟となったが慶長年間
(1596~1614)に宗徳法橋により復興されたと伝えられ庭園もまた桃山風の豪快さを伝えている。
山腹にある書院正面の庭は池泉回遊式のいわゆる蓬莱庭園である。
庭では斜面に露出した巨岩が巧みに利用されている。また、池中や池周辺では大小の自然石を用いた迫力のある石組で枯滝・三尊石などを構成している。
書院を背に庭を眺めると、透き通るような静寂さの中に、あたかも真綿に包まれるかのような温かさと安堵感を参拝者に振る舞ってくれる。
これらは、数百年にわたって地域の人々に守り引き継がれてきた篤い信仰心と、御仏のもとにご尽力された僧侶たちの賜物である。
「西教寺」
言わずと知れた明智光秀の菩提寺です。
滋賀県に大雪の降った数日後に訪れましたが、まだ、県内は寒中の寒さで雪もほとんど残ったままの一日でした。
総門の前で記念写真を撮りましたが、この総門は明智光秀の寄進による坂本城城門を移築したものとの事。
聖徳太子が恩師である高句麗の構想の為、創建されたと伝えられています。
その後久しく荒廃していましたが、良源上人が復興、念仏道場としました。恵心僧都も入寺修行されたことから、次第に栄えるようになり、文明18年(1486)真盛上人が入寺後、堂塔と教法を再興、不断念仏の道場とされ全国に末寺を持つ天台真盛宗の総本山となりました。
元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際、災禍を被りましたが光秀が坂本城主になり、復興に力を注ぎました。
小堀遠州作の客殿庭園は裏山の急斜面を巧みに利用した鑑賞庭園で中央の池泉は琵琶湖を模した瓢単型です。
初夏の新緑、さつき、秋の紅葉、今回訪れた冬の雪景色等は素晴らしい眺めになります。
B:北近江の湊に焦点を当てたグループ
C:近江源氏に纏わる歴史・城郭をまとめたグループ
「近江を制するものは天下を制す」
(1)テーマの選定
課題学習に初めに何をするか?というときに城郭探訪のテーマが出てきました。
近江源氏という名称は知名度が低く、日本史の中でほとんど知られていません。
織田信長が天下統一をするときに観音寺の佐々木六角は城を捨てて敗走したという事で、歴史の中ではさほど重要な位置をおりませんでした。
今回、佐々木一族の末裔と言われる方(Y氏)が学友という事で、5人の学友と佐々木氏の源流を探ると共に、Y氏に先祖から伝えられている話を聞いたり、種々の情報を集めるとともに、現在でも残されている関連していた城郭遺跡等を調査致しました。
(2)現地探索
訪問実施
12月5日:太郎坊宮
12月6日:観音寺城跡&観音正寺&金田コミュニティーセンター
2月12日:滋賀県主催現地セミナー参加:安土駅~観音寺城跡
小和田氏セミナー参加:近江八幡市
3月12日:滋賀県主催現地セミナー参加:新旭駅~清水山城~新旭森林公園
4月18日:沙沙貴神社、瓢箪山古墳、安土城考古博物館