民俗資料収集の方法①
2023/2/8 伊吹山文化資料館にて
粕淵宏昭先生


この資料館は、旧春照小学校春照分校の校舎を利用して開設されています。
(住所は米原市春照。何故、春照にある分校が本校でないのだろうか???
    春照小学校の本校は杉沢という所にあると、春照にお住いの方に聞きました。
小学校3年生までは分校に通い、4年生から本校に通ったそうです。色々複雑な事情が・・


当然の如く、資料館の前には、二宮金次郎の像が有ります。
(私の所にもありました。)

粕渕先生の講義は今回で3回目です。
先生は長浜農業高校の校長をされていた方なので、
初めの2回は農業に関する江戸時代の書物をご紹介いただきました。

 当方、旧の街道筋の街で生を受け、周囲は農家が多かったものの、
純粋な農村ではなく、家業が非農家の為に子供時代の農村風景を覚えているものの、
色々教えてもらうと、あれはこういう事だったのかと、改めて感慨深く思います。
また、先生の話の中で非常に感心したのは、
先人の成した幾多の農業に関する書物の存在と、先人の知恵と、日本人の勤勉さです。

「伊吹山文化資料館」の中に入ると、元々、分校の校舎と聞かされたように、
まさしく懐かしき学校の匂いがしました。初め元音楽室

(階段室で初め何に使われていたかわからなかったので、先生の話で納得)
で近江の湖北地方の雪下ろしの事や、製茶の方法などを、成程 元学校の先生だ

 と合点のいく軽妙洒脱な話術で
興味津々になりました。 


写真は私の余り見た事の無い薬のパッケージです。

 奈良県の置き薬の業者が扱っていた薬です。そういえば私の地区にも奈良県から、
近くの料理屋の2回を宿にして、来られていたのを、思い出しました。
うちの母親が「○○さん」と、親しげに言っていたのを、思い出しました。
いつの間にか、姿は見えなくなりました。最近、そういえば、
近くの知り合いの年配の方が、滋賀県の製薬会社に勤務していて、
北海道担当で営業していたという話を聞きました。因みに、その方は、
退職するまで車の免許無しで、北海道では列車を乗り継いで営業をしていたとの事


蚕の繭から、絹糸を紡いでいきます。農家の大事な収入源です。
私の近所でも蚕を飼っていました。
 


これには、びっくりしました。初め何かわからなかったのですが、
五右衛門風呂です。北近江文化学科の同じクラスで長浜市在住の妙齢なご婦人が
「よく似たものを家で小さいとき使っていた」そうです。
滋賀県中部の私は、初めて見たのですが、寒い湖北の冬を乗り切るためには、
保温効果の良い風呂は、一日の疲れをとるには最高の生活の知恵です。


火花を発し、火をつける火打鎌
(西日本では火打金ともいう)


雪の積もった冬には農家の大事な仕事です。から縄を作り、蓆を編んでいく。
今は、青のビニールシートに置き換わっていますが、今でも、
農家では使っておられるところがあると思います。
よく、地蔵盆の時、お地蔵さんの前で、蓆に座って、近所の悪童たちと遊んでいました。
つい最近、コメの藁と、麦の藁とでは、硬さや、しなやかさが違い、
用途が異なることを、教えてもらいました。どんどん化成品に代わっていくのを、
茫然と見過ごしていましたが、先人のできるだけあるものを無駄にしない精神に感服です。


周囲の、昔からの物品とは異質な品物です。これも文化資料 ???
 他のものと比べて、外観が石油を原料としたプラスチック。
100年以上もすれば、不自然でなくなります。



普段は、見せてもらえない倉庫の中も、見せていただきました。
粕渕先生が蒐集された、貴重な品物も、たくさん収蔵されていて、
一つ一つが小さいころ身の回りにあった気がします。


何を入れていたか忘れましたが、これを、今、作ってもらったら、
目が飛び出る値段を言われます。


農家の必需品 脱穀機

一昔前の農家の便所

農家の大事な現金収入源のための道具です。



こんな、胴太ののこぎりは、そんじょそこらにはありません。
森林に恵まれた地域で使用されていました。

 確か、飛騨古川の「飛騨の匠文化館」にもあったような気がします。


伊吹特産のもぐさ製造用の石臼。
そういえば、伊吹一帯は薬草の宝庫で、近くには「伊吹薬草の里文化センター」もありました。


荒れ地を開墾して、幹を切り倒した後、根っこを引き抜くためにこんな道具が考え出されました。
先人の知恵には驚かされます。

 今はコメが余り、コメの増産は考えられませんが、
一昔前は、コメがたくさん収穫できるのは大いなる喜びでした。
コメが取れそうな土地はこのような道具を工夫し、開墾し、コメの増産に努めました。
しかるに昨今はコメが余り、少し奥地へ行くと、耕作放棄地がたくさんあります。 
山間部へ行くと、猿も、猪も,鹿も、そして熊も、どんどん里へ下りてきています。


春照では、明治の十年も満たない期間、列車が、走っていたとの事。
その名残で「すてんしょ道」と言う地名があるとの事。
「ステーション」からなまったのでしょうね。

 この資料館は、ゆっくり見ていくと結構面白い場所でした。
 民俗学という言葉は、かの「遠野物語」の柳田國男しか、
それも名前のみしか知りませんでしたが、民俗学に情熱を注がれ、
我々をこんな郷愁を誘う資料館へ誘っていただいた粕渕先生に
「ブラボー」の言葉を捧げたいと思います。

    「ブラボー」