11月8日 織田信長と近江の武将その3 山本一博先生

有限実行、比叡山焼き討ち
東近江埋蔵文化財センター、伊庭(能登川)


東近江埋蔵文化財センター所長より説明を受ける


4000年前の土面 正楽寺遺跡  1700年前の合子・櫛 雪野山古墳


左側:縄文時代の土器     弥生時代の土器


寺院の装飾:あっかんべー1300年前 小八木廃寺


金箔瓦 安土城跡

ニ展示:鏡


200年前の柄鏡



信長の比叡山焼き討ち

明智光秀が「平安の御代より王城鎮護を担う延暦寺を焼くなど、もってのほか」と

信長をいさめたことになっているが、実際には、むしろ光秀こそが一番はりきって焼き討ちを行っていたようだ。

焼き討ちの十日前、光秀はこんな手紙を書いてる。

「仰木(ここでは比叡山)の事は、是非ともなでぎり(皆殺し)に仕るべく候」


志村城と小川城への攻撃
元亀2年(1571)8月末~9月初め、志村城・小川城の一揆衆を攻撃、まず近辺への放火、

佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長政が四方から攻撃、670人討ち取る。

志村城の状況をみて、小川城主の小川孫一郎は人質を出して降参した。

志村城

「さかさ川」は琵琶湖へは向かわずに逆に流れている(昔の堀か?)

現地にて確認



愛郷流水の碑

大濱神社






伊庭郷の氏神で、境内にある葦葺きの仁王堂は県指定文化財。

仁王堂には伊庭祭の「坂下し」で用いられる五社の神輿が収められ、祭の中心的な場である。