10月18日 「織田信長と近江の武将」

元東近江市史編纂室長 山本一博先生
危機一髪千草越え

永禄13年(1570)4月20日に朝倉を攻めるため、信長は京を出発する。

湖西から、若狭を通り、(敦賀の)金ケ崎城を攻略。
その後、浅井長政の謀反の報告を聞く。
初め妹・お市の方の婿としてこの話を信じなかったが、方々の報告に接し、
急ぎ28日に金ケ崎を出立。(423日に元亀に改元されている)
信長の最大の危機で、よもや、退くことは考えていなかったと思われるが、c
やむなく退却。朽木谷を通り、30日夜11時頃京へ帰還。
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9日岐阜に向け出立。12日に野洲の永原着。
その間、宇佐山城、長光寺城、安土城などに軍を配置。
                   
(鯰江城跡図)

一方、浅田氏方は鯰江城(旧愛東町鯰江)に軍をいれ、又、愛知川対岸の市原郷(旧永源寺町市原)の一揆もあった。
敵が迫った中を、蒲生賢秀(氏郷の父)、布施藤九郎(旧八日市布施の有力者と思われる)、
香津畑(旧永源寺町甲津畑)速水菅六左衛門等が奔走し、千草越え(旧永源寺町から県境の根の平峠を越え、
三重県に通じる街道)をして、521日岐阜に戻った。
この峠越えの最中、信長は佐々木承禎に頼まれたという杉谷善住坊に、鉄砲で狙撃されたが難を逃れた。
3年後の元亀4年(1573)4月多くの近江の国人衆が六角氏を離れ、信長につく中、鯰江氏は六角方につき、
信長は周囲に付城を作らせ、圧迫する。
この時、百済寺が一揆に同意したという事で焼き討ちを命じる。9月4日(天正元年、7月28日に改元される)、
鯰江城は朝倉、浅井氏が滅亡する中、孤立無援となり落城する。
(百済寺仁王門)

この頃の信長は、東西南北に敵を抱えながらも、東奔西走し、かつ即断即決のイメージで、
他の戦国武将に比べるとものすごくエネルギッシュに行動しているように見受けられる。
桶狭間から20年余り、歴史に名を残す戦いを経て本能寺の変で倒れるまで、
朝倉氏、浅井氏、六角氏、武田氏、三好三人衆、足利義昭、毛利氏、一向宗、比叡山等、
名だたる戦国の有力勢力、宗教勢力を敵に廻し、勝利し、そして、最後には、部下に倒される。
このドラマチックさが、現代の我々には、信長の魅力なのだと思う。
やがて、それは、秀吉、家康に引き継がれていく事になる。

午後からは鯰江城跡で校外学習












土塁跡を見学