10月11日 「織田信長と近江の武将」

元東近江市史編纂室長 山本一博先生

信長侵攻前の近江

近江は「狭狭城山君」「佐々貴山公」等の名を残す有力豪族が蒲生郡、神崎郡、
愛智郡を世襲していた事が、「日本書紀」等の文献から垣間見える。
平安の頃より、宇多天皇(在位887897)の孫、雅信王が臣籍降下し源朝臣雅信と称し、
その孫、成頼は近江佐々木庄に居住。孫の経方は佐々木小脇館(東近江市小脇町)に居住する。

平氏、源氏が勢力を競った平安末期には、土着豪族の佐々貴氏一族と、
佐々木氏一族の間でもその優劣は上下した。
保元の乱(1156)では、佐々木氏は勝馬に、佐々貴氏は負馬に乗ったが、
平治の乱(1159)では、佐々木秀義は負馬になって、相模に逃亡した。

源頼朝の挙兵で秀義の子定綱、盛綱は頼朝の下に出仕した。平氏が滅びると、
佐々木氏は論功行賞により、各国の守護職に任じられた。
佐々貴茂綱には頼朝より佐々木定綱に従うよう命を受け沙沙貴神社の神主になる。

承久の乱(1221)では、佐々木一族は朝廷、幕府方に分かれて戦い、
定綱の四男信綱の流れが主流になり、信綱は幕府の要職を占めた。
その息子達は、六角、京極、大原、高島の四家に分かれた。

六角(泰綱の母は執権北条義時の娘)が宗家の位置を占め、
京極、他二家と共に、近江の歴史を形作っていく。
鎌倉時代、室町時代を通じて、佐々木氏は、六角、京極氏を中心に、
時には栄え、時には衰えしながら鎌倉幕府滅亡、南北朝動乱、応仁・文明の乱を経て、
信長の近江侵攻を迎えることになる。

京極氏で著名なのは、建武の新政から南北朝、室町時代にかけて、
政権の中枢を担った佐々木道誉である。
現在の甲良町勝楽寺に墳墓がある。




小谷城(長浜市湖北町)を拠点として浅井三代で有名な浅井氏は、
京極氏の家臣で、北近江の国人であったが、京極氏を凌駕し、戦国大名になった。

用意周到 近江侵攻

太田牛一について

『織田信長の事績は、信長の配下であった太田牛一(15271613)が著した「信長公記」
が最も事実を伝えているという事で、引用されることが多い。

太田牛一は信長より7歳年長だが、同時代の、まして、同じ信長の部下で身近にいた人でもあり、
後の江戸時代に言い伝えで書かれた書物より、非常に重要視される。

他に、秀吉については、「大こうさまくんきのうち」(太閤様軍記の内)や、
関ケ原合戦を題材に「内府公軍記」、「太田和泉守記」等、多数の著作がある。
著作以外に、秀吉や、配下の武将に仕え、優秀な官吏として名を成している。』

信長、尾張、美濃、北伊勢を有し、岐阜城を本拠とする

信長の統一年表

1560

桶狭間の戦い(今川義元敗死)

1567

斎藤竜興を追い、稲葉山(岐阜)城に本拠を置く

1568

足利義昭を奉じ、入京

1570

姉川の戦い(浅井・朝倉連合軍を破る)

石山戦争の開始(本願寺顕如門徒に呼びかけ、信長に挙兵。)

1571

延暦寺焼討ち

1573

将軍義昭を追放(室町幕府滅亡)

1574

長島の一向一揆平定(1570~)

1575

長篠合戦(武田勝頼破る)

越前の一向一揆平定

1576

安土城築城

1577

雑賀の一向一揆と戦う。

1580

石山戦争終わる(本願寺の屈服。本願寺の東西分離の原因)

1582

天目山の戦い(武田氏滅亡)

本能寺の変(信長自刃。嫡子信忠も死去)

(山本一博氏 資料より)

織田信長は、桶狭間の戦いで華々しく、戦国時代にデビューを飾り
22
年後
本能寺で明智光秀により、47歳で生涯を閉じた。

父信秀の時代は、同族の織田氏などと勢力争いし、時には、戦い、時には和議を結びつつ、
美濃の斎藤氏や、駿河を本拠とする今川の勢力とも戦ったりしていた。
信長自身は、「うつけもの」としての評判であったが、長じるにつれ、本領を発揮し、
自分より評判の良かった弟の信行(又は信勝ともいわれる)などを誘殺しながら、
次第に尾張を固めていく。
斎藤道三の孫龍興の斎藤氏を滅ぼす。又、北伊勢方面を平定し、
神戸氏に三男の信孝を養嗣子として入れ、尾張、美濃、北伊勢を有する戦国大名として、
近江、京への進出を目論むことになる。

足利義昭の依頼により、上洛しようとする信長にとって、近江は江北に浅井氏、
江南には六角氏が立ちふさがっていた。
越前の朝倉、浅井、六角に義昭を擁しての上洛の協力を要請したが、同意は、浅井氏のみ。
六角氏とは武力による衝突になった。
箕作山(八日市)、観音寺山(安土)の戦いを経て、信長上洛する。
義昭、念願の第15代征夷代将軍に就任する。
信長の近江侵攻は、義昭を上洛させ、征夷大将軍につけるための通路確保である。