―城の「見方、調べ方」の学習を終えて― 43期北近江文化学科:水上司郎
項目 | 小谷城 | 安土城 | 彦根城 |
時代背景 | 1500年 戦国時代 (混沌) 防御を目的に難攻不落を⇒天然の要害 周辺の小城、砦とのネットワーク 守りで籠城するための城 石垣、堀等築城技術が飛躍的に向上 京極氏からの独り立ち |
安土桃山時代 (天下布武) 群雄割拠 ⇒天下の趨勢決した 勝者の権力、 財力誇示 軍馬対象から経済(流通)も監視 大規模な城下町 宿敵 六角氏の目の前に |
post 関ケ原(体制固め) 大阪(西国大名)監視 日本国経営の布石 |
築城年代 | 大永5年 1525年 戦国初期 | 天正4年 1573年 短期で完成 | 慶長11年 1606年 20年間 |
築城主 | 浅井亮政 | 織田信長 | 井伊直正 |
地位 | 京極家 筆頭 国人領主 40万石 | 天下人? 700万石 | 徳川家譜代大名 35万石の格式 |
立地 | 70の支城 (軍事的) 街道の要衝 | (経済的) 湖上物流のキーポイント | (政治的)西国監視(関所) |
*城の構造
項目 | 小谷城 | 安土城 | 彦根城 |
タイプ | 山城 (230m) 70の支城 とで湖北要塞化 | 山水城(199m) 信長仕様 天守+石垣 | 平城(水城) 権威見せ付け |
城の大きさ | 東西 1.1 km 南北 0.1?km | 場内は黒金門から城内 總見寺が大手 | 戦向きではない コンパクト |
面積(㎡) | 山岳城ネットワーク | 90万㎡ 武家屋敷含む? | 23万㎡ 武家屋敷含まず |
天守閣 | ??(2層程度) | 天主5層7階(地下1階) | 大津城から 現存 (国宝)外観が良い、、廻り縁 |
礎石 | 外部から搬入 | 整然とした礎石列 | |
瓦 | 金箔瓦 | 瓦葺き | |
土塁 | 土塁的階層構造 登り土塁 | ||
石垣 | 可成り大規模な石垣 (切岸) 山王丸裏の大石垣 ほぼ垂直積み | 大手通り(特別通り) 内裏に相当 算木積み | 登り石垣 堀と石垣 牛蒡積み |
堀 | 大堀切 竪堀 山城で水は無い | びわ湖水利用 朝鮮人街道ー大手門 | 内堀 びわこ |
城内の道 曲輪 | 京極丸、中丸、小丸等連続的に配置 尾根を利用した砦で補間防御 | 黒鉄門近辺? | 堀切 |
矢間、長屋 | 場内戦は考慮外? | 多分有った | 多聞櫓 天秤櫓 長浜城より |
生活空間 | 出土品多数 清水谷に屋敷 | 天守に信長 | 御殿付属 |
*終焉~現在
項目 | 小谷城 | 安土城 | 彦根城 |
最後 | 籠城、交戦後落城 火災の後は認められず | 天守炎上 | 国宝 |
終戦後 | 勝者が占領活用 | 總覚寺が居残り | 明治時代には解体寸前 |
遺構の活用 | 長浜城ー彦根城へ移築 | 總覚寺が引き継ぐ | 国宝として当時を現在に伝える |
課外授業でもあり新鮮な気分で学習に臨めて良かった。
滋賀県には城址、跡が1300ヶ所もあり国内有数の遺跡県である。
その県内の北近江地区で 3つの遺跡(城)を挙げると、彦根城 安土城は外せないし、
あと一つ迷うところであるが 佐和山城址も有りかとも思うがやっぱり小谷山城か!
いずれにしても、小谷から安土まで直線で3、40㎞程の間に
一時期これだけ歴史の流れに影響を及ぼした城が造られたことに感銘を受けた。
時代ごとの最新鋭の築城技術を取り入れて時代の流れを見極めた城の説明を現地で受けると迫力が有った。
ことと合わせて北近江の歴史上のプレゼンスを改めて認識できた。
―近江の著名なお城(中井 均先生に学んで)ー 43期北近江文化学科:若林淳一
4月26日の小谷城、5月10日の安土城、そして5月24日の彦根城。
まさしく、近江が自慢してよい3大お城たちという事を、中井先生の名調子で堪能いたしました。
たかだか、100年の間に著名な3つの城が築かれ、又、その城をめぐる日本史の中でも有名な戦国武将たちが目の前に現れ、
闊歩していくさまを感じることが出来ました。
小谷城
から見てみますと、16世紀初頭、北近江を睥睨する小谷山の地に、主人筋の京極氏に代わり、
主導権を握った国人衆の浅井氏の力を感じ取ることが出来ました。
標高500m程で眼下に250m低い虎御前山を見下ろし近江南部からの勢力をのぞみ、
東に伊吹山方面右手から出てくる美濃の勢力を監視し、北は北陸をと、余すところなく監視できる位置にあります。
険しい山道を登り、土を運び、石垣にするため、手配し、運び、加工し、組み上げていく。
浅井初代の亮政が着工したと言われる小谷城は日本3代山城の一つとして有名ですが、
このような山の頭頂部まで石を運び上げ、人を動員し、建物を建立し、又、城に住居を構え、女、子供を中心に生活を営んでいく。
そこまでしていく事は、現代の私には、想像できません。
地域の権力を握った為政者にとって、自分たちの勢力範囲の地域から食料を調達し、
外敵からの防備を固め、維持していく事の重要さは、なかなか想像はできないのです。
しかしながら、この2月からのロシアのウクライナ侵攻をテレビ報道などで見ますと、人間の本質は変わらないことを実感します。
太古から、食うこと、子孫を増やす事などの本質的な欲望や、自分の力の及ぶところを拡大したいという
つまり、物質的、かつ、心理的な欲望は変わらないことを、改めて思い知らされました。
安土城
では、先生が離された伝羽柴秀吉邸跡が、高貴な来客用の迎賓館であるという話には感銘いたしました。
時代をさかのぼって、当時の事情を考察することは、真実に近づく第一歩だと共鳴いたします。
織田信長は好きな戦国武将に常に上位に登場する人物ですが、その残虐性を考えても、
著名だがとても好人物には思えないなとも考えられます。戦国時代の武将には他にたくさんいますが、
皆似たり寄ったりなのでしょうか。それとも、昨今の日本では、常に人権の問題は取りざたされますが、
一農民、一兵卒などは権力者にとって替えのきく軽い存在なのでしょう。それ程人間は変わっていないように思います。
安土城跡については、昨年初めて登り、今回2度目ですが、前回は家内の後をついて登るだけで精一杯だったのですが、
今回は、頭の中が一杯になって満足いたしました。信長が天守から望んだであろう近江の地、
又、比叡の山々の先の京の地を想像することは、面白くございました。当然将来ビジョンを頭に置いていたのでしょう。
彦根城
ですが、関ケ原に勝利し、天下平定を間近に感じ取っている家康が、西の大阪城や西国を望む近江の彦根に築かせたのは感心いたします。
湖北の小谷や、長浜でなく、又、少し南の安土でなく丁度良い位置かなとも思われます。
この当時は築城のためには、又、城下町形成のためには、琵琶湖は非常に重要なファクターだったのでしょう。
水運が非常に重きを置かれていたと感じます。
大阪には、豊臣が存在し、関ケ原で勝利したとはいえ、豊臣の存在は、未だ非常に脅威であり、
西向いて、城が築かれたのは当然でしょうね。一方で、彦根城には、戦争の時代が終わりつつある空気も感じました。
又、石垣の変遷も教えていただきました。石の積み方、矢穴が初期にはなく、彦根築城の後期に存在すること。
又、隠し狭間の存在など、非常に面白かったです。思い出したのは、黒澤明監督の「七人の侍」の風景を思い出しました。
関ケ原合戦が終わり、未だ殺伐とした時代背景があり、そのような時代に彦根城が築かれた事は、想像するだけでもわくわく致します。
これからは、お城探訪に行ったときは、全く違う観点で見ることが出来ます。
「信長公記」
先生がよく話題にされますが、
よく歴史に登場する人物や事件について、300年や400年後に書かれていることが多いのですが、
「信長公記」は織田信長の配下の武将が、ありのままの信長を見て、
又、当時の事情や出来事を聞いたりして、書き留めているので、非常に信用できる織田信長の一代記と思います。
5,6年前に一度読んだのですがさらっと流すだけで、終わりました。又、再読したいと思います。
私事で恐縮ですが、仕事をやめた後、「青春18きっぷ」や家内との旅行であちこち行き始めていますが、
どうしてもお寺や、神社、そしてお城などが目標になります。
九州では平戸城や島原城も訪れましたし、海沿いに建つ唐津城は、景色のきれいなところでした。
又、信州の上田城や、小諸城にも行きました。
小諸城は全国で唯一下方に向かって入城する城だったと思うのですが、
奥の方に行きますと、眼下にはるか遠く、千曲川が望めました。
地元の話ですが先頃、刊行され、レイカディア大学で斡旋された「12歳から学ぶ滋賀県の歴史」という本で、
縄文時代の遺跡出土品として、10年前に私の近くの「相谷熊原遺跡」発掘された親指大の土偶が、最初に掲載されていたのには感激しました。
約13000年前の縄文時代草創期の土偶で国内でも最古のものらしいです。
又、私の所は、先生の「近江の陣屋を訪ねて」に掲載されている山上藩ですが、
地名として「城の前」という小字名が、「小倉山上城跡」の標柱のあるお寺の隣に存在します。
この地名は、城や陣屋などがあった所に存在することが多いという事です。
先日、城郭探訪で大溝城跡のある大溝藩(現高島市高島町)を訪れましたが、
大溝藩は織田信長の弟信行の子、信澄が初めて城を築いた所で、本能寺の変の後、明智光秀の娘婿だった関係のため、殺害されました。
その後何人か領主は後退しましたが、大阪夏の陣の後、三重の安濃津から分部氏が配下45人を連れて、大溝の領主になり、
明治まで続いたという事です。
大溝は武家屋敷が区切られていて、大溝城跡の一角に大溝陣屋を構え、2万石の町割りがなされていました。
一方、私の所の山上藩は、17世紀末からは、13000石を稲垣氏が治めました。
稲垣氏は定府大名(常に江戸にいる)で、若年寄も務めた事があるそうですが、お武家は殆どが江戸詰めで、
山上は村役人が中心に治めたように思われます。
武家が住んだであろう長屋(明治初め、武士が江戸から大挙して山上に引き上げたため、作られたと聞いています)
は、今でも痕跡のある場所があります。
最後に、この講義以前は地元の歴史は露とも考えませんでしたが、これから、少しずつ勉強できたらと思います。
中井先生ありがとうございました。