事は、中山道の醒井宿地蔵堂前に、藤七となのる旅
の病人が発見された事にある。
通報を受けた問屋場の村役人が保護し、
医者に見せて、事情聴取をおこなう。
(寛延三年6月25日) |
「醒井 石造地蔵菩薩坐像」 |
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藤七は、備後国郷分村(現在の福山市)出身で、
甲斐国身延山久遠寺(山梨県身延町)へ参詣後、
帰路の三河国吉田(豊橋市)で発病し、
養生しながら進むも美濃国今須(関ケ原町)
で保護や駕籠貸を求めたが、問屋場から拒否され、
百文を渡された。相対駕籠(現在のタクシー)で、
醒井宿で降ろされ、そこで宿場役人に保護された
ものである。3日後死去。
ここから今須宿、醒井宿、その間にある柏原宿、
そして、番場の宿場役人をも巻き込んだ裁判の
一件が起こるのである。 |
● この講義は、米原市所蔵の「江龍家文書」を
元に、小野先生が当時
(1750年 9代将軍徳川家重の時代)の庶民の
旅の状況、農村部における宿場の役人の役割、
幕藩体制における宿場間の3か月以上にわたる
裁判の状態を講義頂いた。 |
☆ 江戸時代を考えてみると、1600年の関ケ原の
合戦の後、100年後の元禄時代頃でも、
旅が出きるのは、君命を帯びた武士、商取引
のため街道を往来する職人や商人、
信仰のための巡礼など限られた人たちであった。
松尾芭蕉が弟子を伴い奥州、北陸を旅したのは、
1689年から2年程で、まだまだ、一般庶民が気楽に
旅をするのは、困難だったと思われる。
それが、100年ほどたつと、「東海道中膝栗毛」
の様な滑稽本で表される、のんびりした旅や
伊勢参り、善光寺参りなどが盛んになる。
この話はその間の1750年の話である。 |
藤七さんも、現在の広島県を2月に出発し、山梨県の身延山まで行き、帰路の豊橋で発病し、6月24日に、今須で一歩も動けない状態になって助けを求めたとある。
「身延山久遠寺 境内」 |
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今でも病人が旅行途中で病気で助けを求めたら、
ほとんどの人が何らかの救助の手立てを行うが、
ここで問題なのは今須の役人が、国を隔てた二宿先の
醒井宿まで送り込んだ事にある。 |
醒井の宿場役人は、今須の役人を呼び出し、
対談。初めは、今須は謝ったが、後に今須宿場の
責任はないと主張。
この間、柏原宿は間に入り、又、金堂代官所
(東近江市五箇荘金堂町ーー醒井、柏原は共に、
大和郡山の柳沢家の領地であった)に、
伺いを立てに行ったりした。
醒井、柏原、番場、そして今須の間で協議するが
破談となる。結局、江戸での訴訟になる。
醒井の宿場役人は、金堂や、大和郡山、又、幕府の
出先である今日の二条番所、天領の代官であった
信楽代官所などを、6月末から2か月の間、
何度も行ったり来たりしている。
9月に入り、江戸で裁判するにあたり、、
醒井宿場役人2名、今須宿からも役人が江戸へ、
そして、間に入った柏原の宿場役人も2名江戸に
向かう。
江戸では道中奉行が、訴えに基づき、断をを下す。
駕籠かきには、手錠の上、今須宿預かり。
今須の宿場役人には、それぞれ、7貫文、7貫文、
5貫文、2貫文の過料が命じられた。
柏原の役人にも、5貫文、2貫文の過料が命じられた。
(1貫文は、江戸時代の初期から中期には、25000円位
の情報があり、幕末はインフレで数千円にも下がった)
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「柏原宿」 |
〇 感想
江戸時代の訴訟に持っていく大変さが、
講義によって知りえた。宿場によって話を
持ち込む所が、いろいろ異なり
(特に近江国では彦根藩を除き、たくさんの藩の
所領に分割されている)
宿場役人、これは、現在の自治会役員にも通じるが
その責任の度合いは半端なものではないと感じました。(柏原の役人に過料が課されたのは判然としません)
講義を通じて、近江国の中山道の宿の名を記憶で
きました。因みに、東から関ケ原、今須近江に入り、
柏原、醒井、番場、鳥居本、高宮、愛知川、武佐
(近江八幡市)、守山そして草津で東海道に合流します。 |
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「摺針峠より琵琶湖を望む」
摺針峠は番場と鳥居本の間の峠 「番場宿の石碑」
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