彦根城

                     



     慶長年(1600年)関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、慶長8年(1603年)石田三成
     の佐和山城を廃し、新たに琵琶湖を望む彦根山(金亀山)に彦根城築城を決定しま
     した。
     公儀奉行3人を派遣、」7ヶ国・12大名(最多時36大名)に賦役を課す動員令を発令
     (天下普請)、翌年に着工し、天守ほか主要部分は2年で、城郭全体は彦根藩単独
     工事期間も含めて約20年の歳月をかけ、元和8年(1622年)に完成させました。


       完成した彦根城は三重の堀で囲まれ、外堀には7ヶ所の城門を配し、中堀には4道を
       開きました。
       いずれも厳重な枡形の二重門を備え、内堀には5ヶ所に出入口を設け、攻守にわたり
     要塞の機能を充分に備えるものでした。

       彦根城の築城は西国大名の反旗を抑え、京都を守護するという二つの重大な使命を
     井伊家に委ねたのです。

        以後井伊家は万延元年(1860年)3月3日桜田門外の変での直弼の横死に至るまで、
     江戸にあっては大老、京にあっては京都守護として幕閣最高位の地位を不動のもの
     としました。

     国宝の天守は、彦根山(金亀山)の頂上(本丸)に燦然と輝いています。
     重要文化財としては、二の丸に佐和口多聞櫓と馬屋、太鼓丸に天秤櫓と太鼓門櫓、
     そして西の丸に三重櫓が、各々現存しています。

     江戸時代までに建てられた、現在まで残っている12基の現存天守。このうち、彦根城・
     姫路城・松本城・松江城・犬山城の5基が国宝にしてされています。
     どうしてこの5基だけが国宝で、他の7基が重要文化財なのでしょうか?

       その経緯や理由を探ってみます。

       国宝とは、「(国の)重要文化財のうち、特に優れたもの」とあります。国宝や重要文化
     財といった規定は、優れた文化財を保護・活用するために設けられたものです。
     1929年公布の「国宝保存法」にともなって文化財指定されたものは、すべて「国宝」と
     いう名称でした。
     これらは現在、「旧国宝」と呼ばれています。

       この時、名古屋城や広島城の天守、仙台城の大手門や水戸城の御三階櫓など24ヶ所
     の城郭建築が「国宝(旧国宝)」に指定されていました。
     そして第二次世界大戦後、1950年に「文化財保護法」が交付され、現在に至ります。

     「重要文化財」という規定はこの時生まれたもので、「旧国宝」はすべてが一旦「重要
     文化財」とされ、その「重要文化財」の中から特に優れたものが「国宝」と指定し直され
     たのです。
     この時すでに名古屋城、和歌山城、岡山城、広島城などいくつかの天守は戦災や火災
     で焼失・倒壊しており、残った城の指定建造物は、現在までにすべてが「重要文化財」か
     「国宝」に指定されています。
       

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