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【第1回】「高宮宿と高宮城」

 中山道は、江戸から京都三条大橋まで宿場が全部で69ありました。高宮宿は、江戸から数えて64番目の宿場です。

 10月12日
()、高宮地域文化センターに集まり、これからの講座の学び方についてオリエンテーションを受けた後、高宮宿と高宮城について講義を受けました。

いよいよ、現地研修への出発です。

 高宮宿は、鎌倉時代末期から、浅井氏・京極佐々木氏・六角佐々木氏の境目の城としてあった高宮城を中心に発展してきました。まず、高宮城跡を訪ねました。


 高宮城は、今は、高宮小学校と高宮保育園になっています。

 高宮城を居城とした高宮氏歴代の墓がある高宮寺を訪れました。

 高宮氏の墓所と谷口徹先生の説明を熱心に聞く学科生。みんな、次から次へと質問をし、先生も対応におおわらわです。
 最後に、高宮神社へ行きました。この高宮神社は、鎌倉時代の創建と伝わる古い神社です。

 この神社にも、芭蕉の句碑が建てられています。

「をりをりに 伊吹をみてや 冬籠(ふゆごもり)」

という句で、この句は芭蕉が大垣の弟子の家、千川亭(せんせんてい)で詠んだものです。

 この俳句の碑は、伊吹山の見える場所に多く建てられていて、滋賀県では高宮の他に、長浜の八幡神社の境内や、柏原中学校の近くの道端にもあります。

 柏原中学校の近くにある句碑です。バックに伊吹山が望めます。【写真左】
 長浜市八幡神社にある句碑です。【写真右】

 高宮神社で谷口先生を囲んで記念写真を撮り、高宮宿の探訪を終えました。
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 しばらく行くと、小林家という大きな商家に「紙子塚(かみこづか)」という看板がかかっています。

 「紙子塚」というのは、松尾芭蕉が、円照寺の住職 慈雲から紹介されて小林家に泊まった時、小林家の当主、小林猪兵衛忠淳(ただあつ)は芭蕉と分からずにあまりもてなしをしませんでした。芭蕉は、

「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」

という句を詠んで慈雲に送りました。翌朝、慈雲が芭蕉を訪ねてきて、初めて芭蕉であるとわかり、感激して芭蕉に新しい紙子を贈り、この句を譲ってほしいと芭蕉に頼みました。芭蕉は自画像を描き、「たのむぞよ ・・・」の句とと
もに忠淳に贈りました。芭蕉が亡くなった後、紙子を壺に入れて庭に埋め「紙子塚」と名付けたと伝えられています。
 【「紙子」とは、厚手の和紙に柿渋を塗って貼り合わせ、揉んで柔らかく      して、衣服に仕立てて、防寒用として下着として使用されたもの】

 高宮宿の真ん中あたりに大きな鳥居があります。これは、ここから3kmあまり東の方向にある延命長寿、縁結びの神社「多賀大社」の一の鳥居で、多賀大社への参道の起点になります。

 この鳥居の脇に、大きな常夜灯があり、中山道を往来する人々を照らし続けていました。【写真左】

 また、この鳥居の下に、江左尚白(えさしょうはく)の

「みちばたに 多賀の鳥居の 寒さかな」

という句碑が建てられています。【写真右】

 江左尚白は、大津に住んでいた医者で、江戸時代の初期から中期に活躍した松尾芭蕉の弟子です。
 次に、犬上川にかかる無賃橋に向かいました。

 今は、立派な橋が架かっていますが、かつては橋は架けられてなく、「徒歩越し(かちごし)」といって歩いて渡り、水が出ると川越人足がお金を取って渡していました。明和4年(1767年)に仮橋が架けられ、天保年間の初め頃(1830年〜1840年)、彦根藩が藤野四郎兵衛(豊郷町)・小林吟右衛門(東近江市小田苅町)・馬場利左衛門(彦根市高宮町)らの有志に命じて広く募った義援金で架橋され、無料で渡ることができたので、「無賃橋」と名付けられました。

 橋の北詰めには「無賃橋」の石柱が立っています。石柱に横に線が入っているのは、昔、この部分で折れてしまって、一番上の部分が見つからず、その部分だけを新しく作って繋いだものだそうです。

 また、その横には、「むちんばし地蔵尊」が祀られています。これは、昭和52年(1977)むちん橋の橋脚改修工事の時、橋脚下から二体の地蔵尊が出てきて、それを地元の方々が祀られたものです。

 この橋の北側に、「見附」という施設がありました。見附は、宿場の入り口にあたる場所に見張りの番人を置いたところで、江戸側を「江戸見附」、京側を「上方見附」といい、ここは、高宮宿の「上方見附」になります。東京の「赤坂見附」や「四谷見附」という地名はその名残です。

 ここから、中山道を北・江戸に向かって歩いて行きます。道の両側には、古い商家が並んでいます。

 高宮宿には、昔の面影を残した古い商家が何軒もあります。この商家は漆喰で塗りこめられた壁や柱、防火壁の役目をする袖壁や虫籠窓【右写真】がきれいに保存されています。


 宿場には、大名が泊まる施設として本陣があり、本陣に泊まりきれない場合に使われる脇本陣、問屋場(といやば)といって、次の宿場までの人足や馬を準備する施設や、高札場(こうさつば)といって江戸幕府が発した法令や禁令を書いた高札を掲げる場所がありました。

 ここは、本陣があったところで、間口27m、建坪が396uと広い屋敷でした

 本陣の立派な門も残されています。

 高宮宿には、脇本陣が2軒あり、そのひとつがこの屋敷です。