しばらく行くと、小林家という大きな商家に「紙子塚(かみこづか)」という看板がかかっています。 「紙子塚」というのは、松尾芭蕉が、円照寺の住職 慈雲から紹介されて小林家に泊まった時、小林家の当主、小林猪兵衛忠淳(ただあつ)は芭蕉と分からずにあまりもてなしをしませんでした。芭蕉は、 「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」 という句を詠んで慈雲に送りました。翌朝、慈雲が芭蕉を訪ねてきて、初めて芭蕉であるとわかり、感激して芭蕉に新しい紙子を贈り、この句を譲ってほしいと芭蕉に頼みました。芭蕉は自画像を描き、「たのむぞよ ・・・」の句とともに忠淳に贈りました。芭蕉が亡くなった後、紙子を壺に入れて庭に埋め「紙子塚」と名付けたと伝えられています。 【「紙子」とは、厚手の和紙に柿渋を塗って貼り合わせ、揉んで柔らかく して、衣服に仕立てて、防寒用として下着として使用されたもの】 |
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高宮宿の真ん中あたりに大きな鳥居があります。これは、ここから3kmあまり東の方向にある延命長寿、縁結びの神社「多賀大社」の一の鳥居で、多賀大社への参道の起点になります。 |
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この鳥居の脇に、大きな常夜灯があり、中山道を往来する人々を照らし続けていました。【写真左】 また、この鳥居の下に、江左尚白(えさしょうはく)の 「みちばたに 多賀の鳥居の 寒さかな」 という句碑が建てられています。【写真右】 江左尚白は、大津に住んでいた医者で、江戸時代の初期から中期に活躍した松尾芭蕉の弟子です。 |
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次に、犬上川にかかる無賃橋に向かいました。 今は、立派な橋が架かっていますが、かつては橋は架けられてなく、「徒歩越し(かちごし)」といって歩いて渡り、水が出ると川越人足がお金を取って渡していました。明和4年(1767年)に仮橋が架けられ、天保年間の初め頃(1830年〜1840年)、彦根藩が藤野四郎兵衛(豊郷町)・小林吟右衛門(東近江市小田苅町)・馬場利左衛門(彦根市高宮町)らの有志に命じて広く募った義援金で架橋され、無料で渡ることができたので、「無賃橋」と名付けられました。 |
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橋の北詰めには「無賃橋」の石柱が立っています。石柱に横に線が入っているのは、昔、この部分で折れてしまって、一番上の部分が見つからず、その部分だけを新しく作って繋いだものだそうです。 また、その横には、「むちんばし地蔵尊」が祀られています。これは、昭和52年(1977)むちん橋の橋脚改修工事の時、橋脚下から二体の地蔵尊が出てきて、それを地元の方々が祀られたものです。 この橋の北側に、「見附」という施設がありました。見附は、宿場の入り口にあたる場所に見張りの番人を置いたところで、江戸側を「江戸見附」、京側を「上方見附」といい、ここは、高宮宿の「上方見附」になります。東京の「赤坂見附」や「四谷見附」という地名はその名残です。 |
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ここから、中山道を北・江戸に向かって歩いて行きます。道の両側には、古い商家が並んでいます。 |
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高宮宿には、昔の面影を残した古い商家が何軒もあります。この商家は漆喰で塗りこめられた壁や柱、防火壁の役目をする袖壁や虫籠窓【右写真】がきれいに保存されています。 |
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ここは、本陣があったところで、間口27m、建坪が396uと広い屋敷でした |
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本陣の立派な門も残されています。 | |||
高宮宿には、脇本陣が2軒あり、そのひとつがこの屋敷です。 |
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