番場宿           中山道 トップへ


【第2回】「番場宿とその周辺」

 中山道は、江戸から京都三条大橋まで宿場が全部で69ありました。番場宿は、江戸から数えて62番目の宿場です。

 11月2日
()、番場宿にある蓮華寺に集まり、番場宿について講義を受けました。


 講義の後、昼食をとり、いよいよ午後の現地研修となりました。
 まず最初に、蓮華寺の本堂を案内していただきました。蓮華寺は、聖徳太子の創建といわれる浄土宗の古刹です。

 元弘の乱で、後醍醐天皇の詔により、足利尊氏が六波羅探題を攻め、時の探題であった北条仲時は京を追われ、番場まで逃げのびてきました。その行く手を京極導誉に阻まれ、これまでと覚悟した仲時以下430名は、ここ蓮華寺で自害して果てました。
 宝物殿に、「陸波羅南北過去帳」という巻物が展示されています。これは自刃して果てた北条仲時とその配下の者432名に深く心をよせた時の第3代住職同阿上人が、その名を過去帳に記し、菩提を弔ったものです。

 勅使門の横に、「血の川」という細い溝があります。これは、北条仲時ら432人が自派して果てた時に、おびただしい血が川のように流れ「血の川」と名付けたというものです。

 本堂の横手の坂を上ると、たくさんの墓碑が整然と並んでいます。これは、同阿上人が北条仲時ら432名を葬った墓です。

 境内には、鐘楼と銅鐘があります。この銅鐘には、弘安7年(1284年)に勧進畜生・願主僧畜能の銘があり、国の重要文化財になっています。
 【説明を聞く学科生(写真左)】      【銅鐘(写真右)】
 寺伝で、鎌刃城主土肥三郎元頼の墓と伝えられる宝篋印塔です。

 本堂の裏手に、忠太郎地蔵尊があります。ここ番場宿は、長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公で、幼くして別れた母を尋ね歩く番場の忠太郎の舞台です。そのゆかりの地蔵で、台座には「親をたずぬる子には親を、こをたずぬる親には子をめぐりあわせたまえ」と刻まれています。
 番場宿へ来る時、磨針峠を越えてきました。昔、まだ修行中の弘法大師がこの峠にさしかかったとき、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会います。話を聞くと、一本しかなかった大切な針を折ってしまったので、斧をこうして磨いて針にするといいます。そのとき、ハッと悟った大師は、自分の修行の未熟さを恥じ、修行に励んだといわれています。この話にちなんで、磨針峠と名付けられたそうです。
 この峠には、望湖堂という茶屋があり、ここから見える琵琶湖の入り江を望む景色は旅人の疲れを癒していました。和宮が降嫁する時も、望湖堂で休んだといわれています。しかし、望湖堂は平成3年に火災にあい、今はその後に家屋が建てられています。
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 応仁の乱の頃に堀氏によって築かれたといわれている山城で、六角氏と京極氏、織田氏と浅井氏の狭間で揺れ動いた歴史をたどった城です。

 溝尾神社(直孝神社)寛永20年(1643年)に村人が、2代井伊直孝を慕って直孝神社と称していました。最新は「直孝彦命」で、明治初年に社名を溝尾神社に変更しました。

 ここ、番場宿にも本陣、脇本陣、問屋場がありました。

 特に問屋場はいくつもあり、そのひとつ北村家は明治天皇が休まれました。
 中山道と米原道(番場宿と米原湊をつなぐ道)の分岐点にたっていた石碑です。本当の米原道は、もう少し南(鳥居本宿より)です。
 中山道の楓並木です。街道といえば松並木と思われていますが。楓並木も植えられていました。