北近江文化学科 38期生は、自主校外学習として彦根城の歴史探訪を実施しました。
絶好の天気に恵まれ、桜満開の彦根城を散策しました。
関ヶ原の戦いにより徳川家康が勝利し、家臣・井伊直政は「赤備え」の甲冑で 活躍し貢献した。徳川家康は佐和山城と18万石をあたえた。 2年後に直政は合戦で受けた鉄砲傷で死去した。 後を継いだ直孝も大阪冬の陣に出陣し貢献した。彦根城築城は慶長8年 (1603年)に決定され、翌年から工事を開始、慶長12年には天守を始め城郭の 主要部分を作った。元和8年(1622年)には3重の堀を築き、現在の形に完成した。 彦根の町は、計画的に築かれた都市で、堀で仕切られた区画には、武家屋敷 ・町人地・寺町などが計画的に配置されている。30万石の城下町として、約3万 人の住む全国でも有数の都市でした。 彦根城の石垣の石は荒神山から切り出し、一部は佐和山城の石垣などを使用 し、各地の建物を移築し現在の姿となっている。 井伊家彦根藩は直政を初代に明治時代まで続く。譜代大名の中では筆頭をか ぞえる。 |
桜満開、現在の中堀 |
13代当主井伊直弼が彦根藩で生活し、学問に没頭した場所が「埋木舎」で現在も保存され、当時の面影を残す。
井伊家の十四男として生まれた井伊直弼が13代藩主になるまでの不遇の時期、天保2年(1831年)以後15年をすごした屋敷として
有名で、「埋木舎」は井伊直弼の命名とある。(ネットより引用)
埋木舎玄関 見学中の生徒 小さいながら整った庭
現在は井伊直弼が勉学・茶道など学びの場として保存されている。
琵琶湖の湿地帯を利用し、内堀・中堀・外堀と彦根城を囲むように堀が巡らしています。当時は徳川幕府の号令のもとで進められた。
当日は彦根市のマスコットキャラクター「ひこにゃん」のお出迎えでした。
毎日、ひこにゃんもいそがしそうでした。
彦根城の表御門橋を渡り入場すると右側に彦根城博物館がある。
中には井伊家秘蔵の展示品・能舞台・庭園等が迎えてくれる。素晴らしい庭園の木々も剪定され、桜見ごろでもありきれいな庭。
ここでも記念撮影。あれ 一人足りませんが
この橋は廊下橋と呼ばれ昔は屋根 と白壁が付けられていた。 鐘の丸と太鼓丸を結び、戦さの時 は取り壊し、敵の侵入をふせぐため の備えもしており戦略的によく考え られた橋である。 築城後、彦根城は敵の侵入を一度 受けていないとの事。 見れば見るほど価値のある橋。 |
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立派な廊下橋 | ||
天主をバックに記念写真 国宝 彦根城天主 桜満開の中堀
城郭と桜 遠くに授業で学んだ佐和山城跡 見上げる石垣
玄宮園は彦根城から北東に位置し、延宝5年(1677年)4代藩主 井伊直興が琵琶湖・近江八景を模して造られた。
井伊家の下屋敷として作られ、広大な敷地に茶室をそなえた贅沢な屋敷である。
広大な敷地の庭園で彦根藩の繁栄がうかがえる
彦根城と下屋敷 素晴らしい庭園の景色と北近江文化学科 38期生の生徒達 ここも一度は必見ですよ
!!
世情騒然たる幕末に、開国の英断を下した大老井伊直弼の波乱に富んだ一生を描いた「花の生涯」(作者 舟橋聖一)が発表され
人々に深い感銘を与え、映画、演劇としてまたNHK大河ドラマを通して世の絶賛を博し、「花の生涯」ブームをもたらした。
下の「花の生涯」の碑は昭和39年10月に建立されたとのこと。(文はネットより引用)
私を含め若き幼年期・青春期時代で初めてのNHKテレビ 大河ドラマ第一回の記念碑。
井伊直弼役の俳優さんは誰でしたかな。 一度は訪れてみてください。
近くに住みながら知っているようで知らない方 も多いのではないかな。 知らなかったことも多く知りました。北近江文化 学科ならではの授業でした。 生徒間の交流もまた深まり、夕方からは花見 宴会となった。 右の写真は、中堀のいろは松と石垣桜をバッ クに記念写真。 桜満開の絶好日で中身の濃い探訪でした。 皆さん、花見宴会での飲み過ぎには注意。 |
彦根城のライトアップ風景です。昼とはまた別のおもむきがあります。