平成28年 4月 19日 米原市宇賀野地先、神明自然公園の清掃作業を実施しました。当日は 38期生全員が 9時 50分に集合。
好天気に恵まれ、春の新緑の中で、遅咲き葉牡丹桜が植栽されていて見ごろの日でした。
38期生・園芸学科長 K氏より清掃作業の
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神明自然公園前にて
北近江文化学科 自然公園の草むしり作業の様子 10時~12時まで
神明宮 参道前にて
昼食後、宇賀野公民館の大広間にて健康づくり学科の皆さんによる認知予防のレクレイションをしていただきました。
健康づくり学科のリーダーで全員が体を動かしながら楽しみました。歌に合わせながら体を動かし、やさしいかと思いきゃ
体ついていかず。健康づくり学科のリーダーが出来ない時は「笑ってごまかす」と教えてもらい、ほとんど「笑ってごまかす」
で過ぎてしまった。 なかなか認知予防もたいへん !!
皆さん高齢者のお仲間入りで、出来ない時はにが笑いでごまかし、楽しい時間でした。健康づくり学科の皆さんお世話になりました。
午後は北近江文化学科担当で、戦国時代・山内一豊の妻 千代の出会いの説があり、ゆかりの長野家などを訪ねました。
宇賀野会館をスタート一豊・千代の像→若宮氏館跡→八幡神社→法秀院の墓→長野家→坂田神明宮→坂田駅
平成 17年 5月に旧近江町民らの寄付により建立。作者は米原西円寺出身 の内藤香林さん。 一豊 山内盛豊の三男。 母は正室の法秀院。 出生地 2説あり 主君の居城である尾張岩倉城、父の居城尾張黒田城。 千代 出生地 2説あり 父 近江若宮喜助共興 母 石川小四朗のむすめ 父 美濃郡郡上八幡城主 遠藤盛数 母 友順尼 一豊の父は尾張にて戦死し、母は子供を連れて戦火を逃れ1560年に長野家 に落ち着いた。母は夫盛豊が戦死したのち出家し法秀尼と称した。 |
一豊と千代 (千代が10両出したとされる名馬)
飯村に千代の生誕地を訪ねる。現在の若宮公園が若宮館跡ではないとのこと。
千代の出生については 2説あるが、近江での出生地が飯村の若宮氏とある。
若宮公園で説明を聞く38期生と若宮氏顕彰碑
法秀尼は長野家の屋敷の一隅でひたすら息子の武運を念じ、慎み深く質素な生活を送りながら、近在の子女に
針の業(裁縫)や行儀作法を教えていた。
説によると、この習い子の中に、後に一豊の妻となった千代さんがいたとされる。
利発な彼女をみそめた法秀院は、息子の嫁に推されたと伝えられている。
息子・一豊が出世し、長浜城主になったとの朗報が届き、早々法秀尼へ迎えの使者が来たが、謙虚な法秀尼は、
老体が息子の活躍の邪魔になってはと、また、長年住み慣れた恩義を受けた宇賀野を去りがたく、再三の迎えに
も応じず、その翌年天正 14年 7月 17日病にてこの世を去ったとある。
立派な法秀尼の墓と真剣に説明を聞く 38期生
山内一豊と母 法秀尼親子が身を寄せた長野家。
ガイド担当の説明を聞く皆さん
立派な社殿でお伊勢さんゆかりの宮とのこと 豊穀・豊蚕・除病・延命の祈願とのこと 境内には幾つもの社殿があり、両社併立がうかが える。 |
坂田神明宮は幾つかの宮が存在する。 坂田宮 (内宮) 天照大神 岡神社 (外宮) 豊受昆売命 坂田公 (奉齋) 建武の乱にて炎上、最終的に 井伊家の所領となり、享保 18年 社殿改築。 明治 26年に坂田宮と岡神社との両社併立が認め られ現在に至る。 併立の神社もめずらしいとの事。 |
坂田神明宮でガイドさんの説明を受ける38期生
必修講座 「ボランティアの日」坂田自然公園も清掃作業、歴史探訪も無事終了した。
お世話していただいた世話方さんありがとうございました。