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東アジア交流ハウス
雨森芳洲庵剪定実習
(樹木医:北村正隆 先生)
レイカディア大学
彦根キャンパス
園芸科44期生
広報部会編集
更新日:令和5年10月16日

「はじめに」
 レイカディア大学の2年生となった我々44期生。
 最初の校外実習は、「東アジア交流ハウス 雨森芳洲庵」の庭木の剪定だ。
初心に戻って頑張るぞー

 午前中、生憎、雨が降ったり止んだりする中、平居三夫館長より、「東アジアとの交流と雨森芳洲庵」の説明をしていただいた。

 ~~~芳洲庵は1984年(昭和59年)に芳洲先生の出身地に建設したものです。
ここは、芳洲先生の生涯をたどり、思想や業績を顕彰するとともに、東アジアとの交流と友好を目指す拠点施設です。 大きなケヤキのそびえる敷地からは、遠く己高山に連なる山々が望めます。
 静かな佇まいの庵内には、芳洲先生の著書や遺品、芳洲先生が深く関わった朝鮮通信使の資料などを展示しており、また、研修室では芳洲の朝鮮通信使についての講座、国際交流、人権学習、まちづくりなどの講話を聞くことができます。

 雨森芳洲(1668~1755)は、江戸時代中期の儒学者で、朝鮮との外交に活躍した人です。
 芳洲は、雨森村(現長浜市高月町雨森)の医者の家に生まれたといい、22歳のとき、九州と朝鮮半島との中間に浮かぶ島・対馬藩(現長崎県対馬市)に仕えました。
 その頃は鎖国の時代でしたが、隣国朝鮮とは「通信の国」として、徳川幕府は善隣友好の交わりを結んでいたのです。その交流の窓口が対馬藩でした。

 芳洲は儒者として対馬藩に仕えましたが、31歳から外交の実務を担当する役職を命じられて、数々の業績をあげました。~~~
【10/13平居館長にホームページの転記の許可を電話で得る】




【当時、朝鮮人街道の宿場に宿泊された時の献立の再現】



さらに、サポートの会の先輩、若狭さんが
手品を披露してくださいました。

皆さん拍手喝采!!!

『午前中の実習開始』
  雨も上がり、つかの間の貴重な時間、北村先生から今日の注意点と課題の指導を受ける。
【大きな庭なので、樹木はまず正面から全体を眺めて見る】

この木は少し抜いたり戻したりして全体を小さくしたらどうか。この木は懐を作って奥行きをだしたらどうだろう。 一人が、少し離れたところから木を抜く場所を提案したり、指示をする。
「この木が、この枝があった時。この木が、この枝が無かった時~」なんかのCMではないけれど、想像してみよう。 大きい木ほど時々離れて全体のバランスなどを確認しよう。

【剪定前】

【剪定後】

各班に分かれて作業を進める。

『午後からは天気が回復。晴れ間も出てきた。北村先生の説明の後、剪定作業再開』

【後始末も大事な実習の一つだ】 『終了時、北村先生のお話』


 北村先生の今日の総括を聞きながら、剪定を終えた達成感。みんな神妙な様子。
総勢40数名、一人がするところを44期生とサポート会の先輩方の力を合わせれば、
人の力って大きいですね。これだけおおきな庭木の剪定が出来る。

『終わり良ければ総て良し』 やはり我々44期生は晴れ男・晴れ女だ!!!

       最後に、もみじ饅頭とお薄(お抹茶)をいただき、この日の校外実習を終了しました。


【園芸学科44期生 集合写真】


【サポートの会の皆さんと園芸学科44期生の集合写真】

<雨森芳洲庵にて>

大きな水車が目に入った。その向かい側が雨森芳洲庵だ。
この在所には、周りの空気をほんの僅かに変える訳があるのは、豊かで美しい水があちらこちらに流れていて、せせらぎの音だけ聞こえてくる静寂さがあるからだ。だから、ここに住んでおられる人達の優しさが在所を美しくされていることに敬意を払わなければならない。

樹齢300年とも500年とも思われる大きなけやきの木が、山門の入り口の右手に鎮座しているような守樹木。
だとすると、けやきの木の横に山門を造ったのか。

そんな他愛もないことを思いながら、けやきの木の先を眺めていた。

山門をくぐり左にまわれば大きな庭が見えてきた。
今年は残暑が長く続いたため、秋がまだその装いをはっきりと用意していない時に、
僕にとって秋を秋として感じられるのは、そして、遠くにいるのに感じことができるのに、もっと近づけば近づくほど、わからなくなりそうな不思議な香り。
  そう君はキンモクセイ。
                                                     (T.O)